コロナと暮らし

『コロナ禍の中で演劇をやっていて感じた寂しさと喪失感』(松本市劇団であい舎団員S・K)

私は普段、松本市の芳川(よしかわ)公民館を拠点とし、年に一度のペースで約30年間公演を打ち続ける劇団であい舎に所属し、芝居をしています。劇団であい舎では『基盤は地方(ローカル)に、視野は世界(グローバル)に』を銘に嘘のない芝居づくりを目指し、昭和史などの勉強もしながら、主に社会派の作品を上演し続けてきました。

 

コロナウイルスが流行り出して、ウイルスの危険性が騒がれ始めたのが丁度今年の劇団の活動(公演を含めて)をどうしていくかを、劇団員同士で話し合っていた時でした。コロナの影響を危惧し公演は中止に。

 

毎年公演の期間中は、地元からはもちろん、県外からも多くの方達が公演に足を運んでくれて、会場の公民館は、いつもの公民館と違う少し特別な雰囲気の場所に変わります。

 

「やだ~!ちょっと元気だった?」

 

「今年もであい舎の公演を見に来られて良かったわね。」

 

「また一年元気に生きて、来年もここに集まりましょうね。」

 

お客同士の間でそんな会話が飛び交い、再会を喜びつつ、つらかった事と嬉しかった事、それぞれの一年分の出来事をお互いに報告し合う様な、ただ観劇をしに来るだけが目的じゃない、充実した交流ができる場に、公民館の一室が変わるのです。芝居を見て深く感動して、誰かと思いっきり話して、会場に来た時よりも元気な表情で帰っていく人達の姿を見るのが私は好きで、そんな姿を見ていると「今年も公演を頑張って公演をやって良かった。」と感じ、こちらも元気を貰えていました。コロナの事があったから仕方なかったとはいえ、今年はそんな大切な場所を作りだす事が出来なかった事をとても残念に、そして切なく感じます。

 

そんな状況の中ではありましたが、公演は中止になったものの、であい舎では回数を必要最低限に減らし、様子を見ながら劇団の活動を続けることに。しかし毎日の様にコロナウイルスのニュースが流れ、嫌でもコロナウイルスの情報が入ってくる日々が続くうちに、私の胸の内には、コロナウイルスや人と接触する事への恐怖心や猜疑心が生まれてきていて、であい舎のメンバーと、コロナウイルスが騒がれ始める前の様な距離感で交流をしたり会話をする事が出来なくなっていました。厳しい稽古を何度も一緒に乗り越えながら幾つもの世界を創りあげ、時間をかけて親しくなった相手を、疑いたくないのに疑ってしまう。怖がってしまう。それは劇団のメンバーだけではなく、劇団以外の他の人達に対しても同じでした。今は「コロナウイルスと共生していくしかないんだな。」という思いが私の中にあるので、必要以上にウイルスや人との接触を怖がらなくなったけど、あの時はその事が一番辛かったです。あの状況の中で私は簡単に人への信頼感を失いそうになったし、そんな自分の酷さを自覚し、また楽しく人と会える様になるまでに、けっこうな時間がかかってしまいました。今回気がついたそんな自分の一面にショックを受けたけど、その一面をしっかりと自覚して、今後は気をつていきたいと思います。そのうちに松本市内の公民館が休館となり、であい舎の活動も数ヵ月間止まる事になりました。現在は少しずつ、活動を再開させています。

 

たとえコロナウイルスが落ち着いたとしても、これからはきっと以前と同じ様なやり方や、距離感で稽古をしたり公演を行うことが出来ない。今までお客や劇団員同士で時間をかけて積み上げてきた、やり方や馴染みのある距離感を変えたり捨てなければ、芝居を続けられない。目まぐるしいスピードで変化していく演劇界や世の中の中で、正直、取り残されてしまった様な感覚と寂しさ、喪失感が私の中にあります。胸の内の情熱はそのままなのに、この流れやスピードに乗っていけない人達はどうなるのだろう。

 

このコロナ禍の中でリモート演劇等が生まれ、現在もフェイスシールドの様なものを利用したり、こまめな換気や人同士の間隔や距離に気をつけるなど、様々に対策や工夫が重ねながら演劇の稽古や公演が行われています。今回のコロナの様な事や戦争、他にも大きな事件がおこった時には一発で「演劇なんて必要ない!」「無くなっても誰も困りはしない!」と切り捨てられるか、権力者の道具に使われる危うさを演劇は抱えていると思いますが、「これからどうしていけば良いのか。」「今、自分達に出来ることは何か」を皆それぞれ考え、この状況の中で頑張っています。コロナ禍の中で演劇をやっていて感じた寂しさや喪失感から逃れる事は出来ないけど、私も自分に出来る精一杯の事や、やってみたい事をしっかりと考え行動にうつして、少しずつでも進みたいです。

 

少し話が逸れますが、コロナ禍の中でハッキリと見えてきた様々な課題はもちろん、戦争や憲法のこと、過去の過ちがなかなか活かされない原発や、環境破壊がジワジワと進行中の地球のこと、人知れず切り捨てられる人達がいて、亡くなる人が後を絶たない社会や世界を見ていると、この世界に対して終末を感じるし「経済成長」という言葉に虚しさを感じます。命の価値が経済成長よりも軽い今の仕組みの中での成長は、もう限界地点に来ていると個人的には感じています。今の様な社会を作ってきてしまった一人の大人として感じている、若者や子供達に対しての責任感はとても重たいものだけど、一日一日を一生懸命に生きている子供達や若者を見ていると、自分と他人の命の両方が大切なものだと実感を持てる様な、生きてて良かったと思える様な社会を遺してあげたいと、切実に感じるのです。

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コロナ禍を転じて福となすために。支え合いながら社会にも働きかける仕組みができれば(志木碧、社会福祉士)

私は、様々な理由から学校に行けないお子さんや、困難の中で養育をされているご家庭と関わっています。学校が再開に向けて動き出した5月頃は、先生方も苦労されながら学年ごと・地域ごとなど「分散登校」をしていました。特徴的だったのは、いわゆる「不登校」とされていたお子さんたちが、この間は割と順調に登校できていたことです。大きな集団の中で長時間過ごすことに負担を感じるお子さんでも、少人数で先生の目が行き届き、学校で過ごす時間が短い分散登校のような形なら、学校が居場所になりうるのだと知らされました。また、今までの校則が見直され、「マスクは白色でなければならない」などという決まりは必要なかったことが証明されました。夏の制服は紺色のポロシャツでも良くなり、今でも体操服での登校・授業を認めている学校があります。

 

一方で、コロナウイルス対策が定まらない中、対応が各家庭に任され、「コロナうつ」とでもいう状態になった子もいます。ウイルスがついているのではと気になり、ボトル1本分のせっけんを使ってもまだ手を洗い続ける、先生が消毒したトイレにも入れない、そして「自分が登校している間に家族がコロナで死ぬのではないか」と心配で学校に来られなくなるなど。また、感覚が過敏なお子さんはマスクをつけることが負担で外出できなくなりました。コロナを理由とする欠席を「出席停止」扱いにしたため、不登校傾向の把握に時間がかかったこともあります。さらに、自宅にこもってひたすらゲームやYouTubeに熱中し、生活リズムが乱れて登校できなくなった事例も多く見てきました。

 

こうしたご家庭の相談に乗り、訪問したり様々な機関と協力したりしながら、お子さんが本来持つ力を最大限発揮できるようにするのが私の仕事なのですが、コロナを理由に関わりを拒否されることもあります。信頼関係を築く前に「感染が怖いから」とシャットダウン(の口実に)されると、家庭の中の困難さに迫ることができません。

 

コロナウイルスは、人々の信頼関係とネットワークをも破壊していますが、それに輪をかけたのが政治だと思います。何にどれほど効果があったのか全く検証も反省もされていない「一斉休校」。子どもたちは進学・進級へのまとめができず、新学年になってからの2ヶ月も奪われ、学校再開後は駆け足の授業が行われています。根本的には学習指導要領を見直し、詰め込み教育を正す必要があるでしょう。私は地域で無料学習スペースの運営をしていますが、特に中学1年生の学習への負担感をひしひしと感じます。

 

最後にこれからを生きる子どもたちへ、コロナ禍を転じて福となすために考えたことを書きます。

1.子どもたちに少人数学級を――1クラスに40人では、物理的な距離もとれません。何より一人ひとりの子どもに目が行き届く教育を今こそ実現したい。先生方にも余裕が生まれると思います。

2.校則を含むルールを考え直す――例えば学生服は着たきりで洗濯もままならず、感染症対策としても疑問です。誰のための決まりなのか・本当に必要か、その決定過程に子どもも関われればいいですね。

3.誰もが助け合える社会に――「自助」と「自己責任」ばかりが強調される世の中は暮らしにくい。コロナ下で生活に困窮される家庭も増えています。声をあげられずにいる子どもや保護者にいち早く気づき、支え合いながら社会にも働きかける仕組みができればと思います。

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とりあえずは、わが身を守る為の行動をとろう(路傍の土、パート従業員)

私は東信地方の小さな会社でパートで働いています。

今までいろいろな会社で働いてきましたが、その中でも人間関係においてはどこよりも恵まれた環境で仕事ができていると感じています。

ただ、この新型コロナウイルスが世界中を騒がせるようになってから、その良いはずの人間関係になんとなく居心地の悪いものを感じてしまっています。

 

仕事中はみなマスクをしていますが、昼食の時間はコロナ以前と同様に、1つの部屋に集まり、全員でテーブルを囲んで食べています。当然マスクを外して食事しますが、特に換気もしていないようです。

 

私は、夫が仕事で首都圏へ行くことが多い為、昼休憩のこのスタイルに危険性を感じてそこに加わることをやめました。万が一、感染していた場合を考えてのことです。

水場にある共用のタオルも、以前から全員で同じ物を使うということに違和感を覚えていたので、これを機に使わなくなりました。自分のハンカチを持っていれば済む話ですから。

 

この会社の人たちは、新型コロナは別に怖くない、自分はかからないと思っているのだろうか、と思っていましたが、同僚たちと話すと、それぞれは不安に思っているようですし、都会からの旅行者が飲食店でマスクをせずにお喋りをしている姿を不快に思ったりしているようなのが分かりました。

不安や恐れはあるのに、実際の行動には「自分たちは大丈夫」「この会社の中だけは大丈夫」という意識があるように私には見え、そのズレに、私は一人、戸惑いを抱いています…。外部からの人の出入りはほとんどない職場ですが、もうすでに誰がどこで感染していてもおかしくない状況です。「大丈夫」に根拠があるようにはとても思えません。

 

きっと大丈夫、というのはお互いを信用してのことなのか、大丈夫だと思い込みたいだけなのか。

でももしも誰かが知らずに感染していたら、マスクを外して換気もせずに近い距離で喋りながらお昼ご飯を一緒に食べている人たちは、どうするつもりなんだろう。全員が出社できなくなって、仕事は回らなくなるけれど、そういうリスクは考えないんだろうか…

そういう気持ちを抱くことは、独り善がりなのかもしれません。危機感や警戒心の持ち方は、個人差が大きいのだとつくづく感じます。一人もやもやしながら働く日々ですが、とりあえずは、わが身を守る為の行動をとろうと思います。

 

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保育園の園長をしております。私たち保育園従事者は、毎日、緊張と不安の中で生活しております

保育園の園長をしております。

新型コロナ・ウィルス感染症の感染拡大で、私たち保育園従事者は、毎日、緊張と不安の中で生活しております。国・長野市から度重なる感染予防の通知、自粛要請の通知、がひっきりなしにきています。目に見えないウィルス予防対策。慣れない感染予防に、手探りで、毎日を過ごしてきました。

 近隣でのクラスター発生には、職員で手分けして、保護者に連絡。手洗い・うがいの習慣化。消毒。職員・保護者には、マスク着用。登園は、毎日、こどもたちに検温、体調の確認。健康チェックシートを保護者に義務付け、来園者にも、体温測定、マスクの着用、氏名・所属の記録を取りました。

 園の行事は、ほとんどが、中止。卒園式、運動会も時間短縮、保護者を制限してきました。

研修は、メール研修、オンライン研修になりました。

「第二波」「第三波」と続き、感染者の数に、常に気を配り、現在は、子どもの受け入れ、荷物の受け渡しは、すべて玄関で行い、保護者も園内にはいれていません。

保育従事者は、皆疲れ果てています。もともと、保育園は、三密が避けられません。子どもたちには、免疫力を高めるために、食事をよくとり、早寝早起き、野外で、薄着になって遊ぶことを奨励しています。

 8月には、市の方に、保育者従事者全員の定期的なPCR検査をお願いしましたが、無理ですということでした。

 今回のコロナ禍によって、考えさせられたのは、医療、教育、介護、保育、障がい者施設、学童保育、福祉の現場では逼迫しているということです。経済中心の政策、新自由主義からの脱却を本気になって、考えるときになったと思います。

また、コロナ感染者や、医療従事者に対する、誹謗、中傷についても考えさせられます。皆が、助け合って生きていかねばならないです。

そんなことを考えながら、毎日を過ごしています。子どもたちが、全員帰った後は、本当にホッとする毎日です。

 

上高田保育園園長・藤原睦明

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県外の人を決してウイルス扱いしているのではない。自分達が今までしてきたことがまるで馬鹿みたいだから悔しいのだ(ふたば、製造業)

何年か前に「鳥インフルエンザのような新型のウイルスでパンデミックが起こったらどうなるのか」のような特集を観たことがあって、国や自治体の対応、そして個人で準備しておくものや心構えなどが細かくふれられていた。私は個人で出来る防御として毎年必ず消毒用アルコールは用意していたし、マスクも会社でインフルエンザ予防に付けるように指示されるので買い置きがあった。

だから本当に心配はしていなかった。日本は対応出来る能力があるから大丈夫。

 

でも日本に初の感染者が出る頃から「どうして?」ばかりが口をついて出てきてしまう。

どうして隔離しないのか、どうして検査を広げないのか、どうして人の動きを制限しないのか。理解できない事ばかりが起きていて理解できない自分がおかしいのかとも思ってしまう。

感染を広げないためにする事は決まっているはずで、ただその通りやればいいだけなのにどうしてそうしてくれないんだろう。やる気がないのか、やりたくないのか、面倒くさいのか、どうでもいいのか、本当に国会議事堂に行って聞いてみたいくらい不思議でしょうがない。

 

田舎に住んでいると、親と同居の3世代家族は珍しくなくて4世代すら珍しくないし、兄弟がみんな都会に出て行ってしまって嫁ぎ先の親と実家の親を両方見なくてはいけない人が沢山いる。みんな「年寄りにうつったら大変!」と頑張って対策をしている。会社の人は市外に1度も出ていないという。都会の学校に行った子は「婆ちゃんに何かあったら困る」と春からずっと帰ってこないと聞いたし、娘の同級生でこの春都会に就職した子は年寄りを心配して帰って来させないようにしているという。我が家の子供は地元で就職したので連れ立って買い物をしている時に会ったりすると申し訳ない気持ちになる。

 

みんな寂しい思いをしながら、不安を抱えながら、ストレスを溜めながら、年寄りや子供を守るために本当に頑張ってきたのに、なぜ、GO TO???

高齢者が多い田舎、自分の家に居なくても隣近所に居る爺婆まで心配し、施設や保育園に勤めている人がいるお宅にはマスクしてアルコール持って玄関口でなるべく早く用事を済ませるようにしてきたのに。

土日になれば地域の年寄りが老人カー押してトコトコと買い物に行くスーパーに一目で都会の人と分かる人達が野菜が安いと喜んで買っている。道の駅などは見たこともない珍しい地名のナンバーの車まであって、日本中が動いているのがよく分かる。

 

県外の人を決してウイルス扱いしているのではない。自分達が今までしてきたことがまるで馬鹿みたいだから悔しいのだ。

 

ヨーロッパではまたロックダウンし始めた。まだ冬は始まっていないのに。それでも日本はGO TO。一体私の住んでいる国はどうなっていくんだろう。それともこんな風に考えている私の頭がおかしいのだろうか?誰か教えて欲しい。

 

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早く新型コロナウイルスが終息し、当たり前の日常に戻れますように(まこ)

新型コロナの感染が拡がり、学校が休業になった3月。我が家の子ども達は、突然の事態に「アベのやろう!」と怒って帰って来ました。この決定には納得が出来なく、休業中子ども達は、とてもイライラしていました。課題も、休業が延びる度に増え、予習の範囲を見る親も大変でした。親が先生になると、親子関係が崩れます。

 

店頭からマスク、ハンドソープ、消毒など感染予防製品が消えました。夏頃になると、毎日のようにテレビのニュースで報道される感染者数に、下の子は脅え小さい心が不安でいっぱいになっていました。

 

学校では35人の教室で過ごし、何かする度に手を洗う。運動会は体育参観日に縮小され、中学校の修学旅行は県内日帰り研修旅行に、文化祭もリモート、音楽会も3部に分けてマスク着用での合唱、部活の大会、コンクールも全て中止になりました。それなのに、国はGO TO キャンペーンを始めました。そして、感染拡大。

子どもは、「私達は我慢しているのに、大人がどうして!」 とニュースを見ながら怒っていました。

 

 私は、子ども達の毎朝の検温と健康チェックカードの記入に、疲れを感じています。ただでさえ、忙しい朝。負担は大きく、早く解放されたいです。

 

 日本の政治家には、頭の良い人はいないのでしょうか。自分の利権しか、頭にないのかな。

 早く新型コロナウイルスが終息し、当たり前の日常に戻れますように。

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朝刊の配達、日中は配送の仕事とダブルワークをしている主婦です

バブル時に派手に事業を拡げ崩壊した義兄のあおりを受け、我が家を手放し、子どもがそれぞれになるまでは…と必死に働いて今に至っています。でも、一向に楽にならない暮らし。何故でしょうか?

格差は拡がるばかりです。そこへ追い討ちをかけるような新型コロナ感染症。長引くコロナ禍で雇用は悪化し、非正規労働者や女性、一人親世帯に痛みが集中しているのではないでしょうか?

住むところを失う人たち、空腹を我慢する親子、夢を諦める子ども達…等々。困窮している人たちを救えない情けない政府。おかしくないですか?困窮する人たち、底辺にいる人たちに救いの手を差し伸べるのが政治本来の仕事ではないですか?

一日も早く、この冷酷な政治が終わりますように…と毎朝配る新聞の1面を見ては思う私です。

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ぱんだのかあちゃん(看護師)の生活綴方

一度しかない年長さんの行事

年長だけが出来る、そうめん流しの係が出来なかった双子

 

感染拡大防止のため、移ってはいけない姑に双子を預けて仕事に行くという矛盾

エッセンシャルワーカーや医療福祉関係で休めない職種の子は預かってくれるようになり、この半年 なんとかやってきました。

常に感染のリスクに晒されながら、そして、私達自身が感染させるかもしれないと怯えながら、必要な対策を話し合い、実践し、訪問先に伺う日々です。

必要な手袋やマスクといった防護用具がなかなか入手できないこともありました。

 

ピンチはチャンスとも言います。コロナ禍をきっかけに、様々な社会の歪みが浮き彫りとなり、是正するために、今までの慣習が見直されたりしています。

感染対策においても同様です。

何となくマスクして、何となく消毒してというより、しっかりマスクして買い物に行く、私が普段からやっていたことです。

マスクなんて効かない、というのは覆されつつあります。

園でもこの時期、鼻を垂らして咳をゴンゴンしている子は、滅多に見かけないです。

それが良いか悪いかは、わかりませんが、コロナと同時に去年のようなインフルエンザによる一家全滅は避けられるかもしれません。

私は医療福祉関係の仕事ですから、不要不急の外出自粛、大勢の集まりに出ない、県外へ行くときは申請するなど規則があります。

一方で世間は、経済を回さなければならないため、人の出入りはある程度緩和されてきました。

私達は旅行に出かけるのも我慢しています。

世間は、ゴートゥキャンペーン…わかります。観光、旅行、飲食業界は死活問題です。

医療福祉関係者への給付金が出ましたが、しっかりと課税されていました。

給付金なのに課税…なんだか悲しくなりました。

いま、自宅の新築のため動き出していますが、打ち合わせ中もマスク

買い物でもマスクにアクリル板

手袋したままの店員さん。むしろ不潔と思いつつも買い物

子どもを堂々と買い物に連れて行かれません。

人と話すときいつも薄い膜に隔てられている気分です。

ソーシャルディスタンスというものに隔てられていて、私は三密を防ぐために、月1回のママ友会も我慢しています。

世間は色々出かけられるのに、私は我慢の日々です。

この日々に慣れては来ましたが、時々無性にいらだつときがあります。

お金をいただけるのはありがたいのですが、何せ人との触れ合いが減ってしまったことが何より、私のメンタルを少しずつ削いでいっています。

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コロナ禍のなか、冊子づくりをすすめています その意義を世界と日本の事例から考える(コロナと暮らし実行委員会)

20日、コロナと暮らし実行委員会を行いました。

 

コロナ禍のなか、生活者として、自分自身の生活や、そのなかで見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを、事実に即して具体的に自分自身のことばで表現した文章を集め、冊子にする作業をすすめています。

 

冊子をつくる意義を世界と日本の事例から深めました。

 

チリのアルピジェラ。アップリケのタペストリーです。もとはチリ沿岸部イスラ・ネグラ地域の伝統手芸。1973年以降、ピノチェトによる新自由主義・軍事独裁下、政治弾圧で家族を失ったり、貧困に苦しむ女性たちがアルピジェラを用いて自分たちの日常生活を表現し、人権侵害に抵抗するネットワークを形作っていきました。

 

日本の「生活綴方」。生活者としての子どもや青年が、自分自身の生活や、そのなかで見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを、事実に即して具体的に自分自身のことばで文章に表現すること、またはそのようにして生み出された作品です。生活綴方運動は、〔1〕日本の風土から生まれた土着の教育思想、方法であり、〔2〕公権力の教育支配に対抗する下からの教育として、〔3〕子どもの実感や要求を出発点とし、生活者としての現実認識を育てようとする教育としてとらえることができます。日本近代教育史上、重要な意義をもつ運動で、学校の外での成人や青年の運動にまで発展しました。

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コロナ禍で奪った「教育を受ける権利」は重大な人権問題(養護学校教諭のTさん)

2月27日に安倍首相(当時)が突如表明した全国一斉休校の要請は、学校現場に大きな混乱を巻き起こしました。当時、私は小学部6学年を担任していました。卒業まで2週間余り。子どもたちと大切に過ごそうと考えていた日々が目の前から消え去り、大きなショックを受けました。

 

感染の拡大していない地域にまで一律に休校を要請することは科学的根拠に乏しく、また首相による要請に法的な強制力はありません。それでもほとんどの自治体が一斉休校の判断をしたのは、授業を続けて万が一感染者が出た場合の批判や責任問題に対する懸念があったのではないでしょうか。その一方で、憲法26条で保障されている「教育を受ける権利」を子どもたちから奪ったことに対する責任は誰も取りません。次第に、これは「子どもたちとの大切な時間が奪われた」という感情的な話だけではなく、重大な人権問題なのだということに気がつきました。

 

障がいのある子どもたちの中には、突然の休校によって生活リズムが崩れ、心身ともに不安定になったお子さんも少なくありませんでした。睡眠が不安定になり、パニックや自傷行為が出てきたなどの報告を各所から受けました。特別支援学校では、家庭の状況によっては「学校を居場所とする」ことも可能となっていましたので、毎日数名が登校してきました。その子たちには、なるべく普段通りの生活が送れるようにしたいと思い、たとえ1名のみの登校でもいつも通りに朝の会や帰りの会をしたり、通常登校のときと同じような日課を組んだりして対応しました。

 

臨時休校中も保護者の仕事の関係などで、放課後等デイサービスの事業所を利用するお子さんが多くいました。学校に比べて敷地も狭く「密」は避けられない状況であるにもかかわらず、福祉事業所では子どもを受け入れなければならないという方針に大きな違和感を覚えました。学校が責任を丸投げしているようで、申し訳なく苦しい思いでした。

 

6月以降、通常登校が始まり、学校に子どもたちの元気な声が戻ってきました。この間、ICT教育の必要性が声高に言われるようになっていましたが、今回の相次ぐ休校によってオンライン授業の必要性などがさらに強調されるようになりました。職員間でも、どのようなことができるか検討をしましたが、考えれば考えるほど実際の子どもたちの姿とのギャップが深まるばかりでした。学校という場所の価値を考えたとき、友だちや教師の存在は外せません。特に特別支援学校小学部の子どもたちにとって学校は、遊びや実際的な体験を通して人やものと触れ合ったり、人とかかわることの楽しさや心地よさを学んだりする大切な場です。オンラインや自宅での学習をどうするかだけでなく、どのようにすれば安心して子どもたちが登校できるかを考え、感染拡大防止の手だてを最大限施しながら、学校での教育の機会を保障していくことが重要だと感じています。

 

最後に、日本国憲法で「教育を受ける権利」が保障された後も、障害のある子どもたちは就学免除・猶予制度の下、学校に行きたくても行けない時期が続きました。「社会に役立ちそうな一部の者を除いて、障害児に投資する価値はない」とされるなか、当事者、保護者、教師をはじめとする多くの人たちの運動によって1979年にようやく養護学校の義務制が実現しました。学校に行けることになった子どもたちや家族の喜び、学校に通い始めたことによってぐんぐんと発達していく子どもたちの姿など、当時の記録をからは学校の価値とその重みが伝わってきます。「新しい生活様式」のもと様々な制約もありますが、学校現場に身を置くものとして、学校が子どもたちにとって希望の場であり続けるために努力を続けたいと思っています。

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この半年の学生生活は「つらい」 今の政治は学生や学問のことをとことん軽く見て貶めてる(長野県出身の西のほうの大学2年生さん)

大学に行って授業を受ける、友人や先生と行き会って話をする、

図書館で本を読む、学食で食事をする。

正直これが当たり前だと思っていました。そして続いていくものであるとも。

でもそれがこんなにあっさりとなくなるなんて今でも信じられません。

この半年を一言でいうと「つらい」が一番適当な言葉です。

ですが、その「つらさ」の原因は家にこもってひとり課題をこなすしかないこと以外にもあります。

今の政治が学生や学問のことをとことん軽く見て貶めていることです。

コロナ禍の影響を受けなかった学生はいないのに支援策に線引きをしたこと、某政党が私の専攻している分野の知識を誤用したこと…。

たくさんありすぎてキリがないですね。

 

なんで学生やってるだけでこんな思いをせにゃならんのだ、もとをただせば政府の失策と無策のせいじゃないか、科学を政治の道具にするな。

こんな思いをするのはもうたくさんです。根本から変えたいです。今すぐまともにするのは無理なのはわかっています。

でも次の世代までにはもう少しまともにできるはずだし、その次の世代までにはさらによくできるはずです。

なにもしないでいるのは嫌です。

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フラワーデモでようやく声を上げることができた被害者の声を嘘だと、無かったことだとでも言うのでしょうか

フラワーデモを皆さんは知っていますか?

フラワーデモは2019年3月に相次いだ性暴力に関する無罪判決に抗議して始まりました。そしてその抗議の声は全国に広がり、長野では2019年6月から、松本では11月からフラワーデモは始まっています。もう黙っているのは嫌だ、こんな世の中を変えたい、その声が繋がり全国47都道府県に広がりました。

 

自民党杉田水脈議員による「女性はいくらでも嘘をつける」発言に抗議する緊急オンラインフラワーデモにおいて全国のフラワーデモ主催者が30人以上参加し、抗議の声を上げました。

そしてそれに賛同する抗議の署名はhttp://change.orgで行われ、13万6千筆超の抗議の声が集まりました。

 

ですがこの抗議の署名を自民党は受取拒否をしました。ブログでの釈明があること、辞職要求にには応えられないが受取拒否の理由です。

 

性暴力被害者は長い間声を上げることができませんでした。たとえ声を上げたとしても無かったことにされてきました。フラワーデモでようやく声を上げることができた被害者の声を嘘だと、無かったことだとでも言うのでしょうか。

 

もしあなたの母親が、友人が、子どもが「女だから」という理由だけで嘘つきだと言われたらあなたはどう思いますか?その言葉に賛同しますか?それとも怒りますか?仕方がないとあきらめますか?

自分には関係ないと聞かなかったことにしますか?知らなかったことにしますか?

ですが権力によるこのような暴言のターゲットは次にあなたに向かうかもしれません。他人事でなく自分事として捉え考えてみませんか?

 

性暴力被害者の声は小さく、大きな声である加害者の声に消されてきました。13万6千という声を無かったことにさせることはできません。踏みにじるようなこの行為を許すことはできません。

 

杉田議員は過去にもLGBTQへの差別発言など基本的人権を無視する発言を繰り返してきました。ですが自民党は都度注意はするものの許してきました。何故なのでしょうか。理由として自民党や日本会議の本音を代弁して口にしているから。そのようにしか見えないのです。古参の国会議員が口に出来ない本音を代弁し、彼女は国会議員の地位を手にしている。そのようにしか見えないのです。

 

杉田議員は比例区トップで当選しています。次回の選挙を注視しましょう。また彼女が選挙区ではなく比例の上位にいたとしたら、それが自民党の答えです。本質です。女性の基本的人権は踏みにじっても構わないという考えなのだと。それでもあなたは自民党を支持しますか?個人を蔑ろにする社会を支持しますか?

 

私達ひとりひとりは大切な存在です。

あなたは大切な人です。

何度でも言う。

あなたは大切な人です。

 

誰でも生きやすい人を守る社会を求めたい。

それが願いです。

 

フラワーデモ長野呼び掛け人 Mさん

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