信州の戦争の歴史

平和・協同ジャーナリスト基金賞「奨励賞」を受賞した清水まなぶさん(シンガー・ソングライター)からのメッセージ

信濃毎日新聞12月2日
信濃毎日新聞12月2日

太平洋戦争開戦という日に

平和や戦争のことをあらためて皆で考える。

とても大事な事だと思います。

そして、その思いを胸に

街に出て行動を起こされている皆さんに敬意を表します。

 

私事ながらこの度 長野県内 全市町村での

戦争体験の聞き取りをまとめた本を出版しました。

 

たくさんの方に直接お話を聞かせていただくと

それぞれに戦時中の辛さや苦労がありました。

そんな当時の方々の悲しみや命の上に

今の日本のこの豊かな暮らしがあります。

 

当たり前にある平和。

しかしこれは当たり前な事ではなく

いつでも、あっという間に崩れ落ちてしまうということも頭に入れておかなければなりません。

だからこそ皆で築き上げていきましょう。

平和な世界を。

いつまでも笑顔あふれる故郷を。

 

「もう二度と戦争を起こしてはならん」。

自分たちもだが、子どもや孫にあんな事を体験させたくない。

これが戦争体験者たちからのメッセージです。

戦争の悲惨さも風化しそうな

開戦から76年の今だからこそ

皆でしっかり その思いを受け取り

繋げていきましょう~

 

ありがとうございました!

 

2017年12月8日 清水まなぶ

太平洋戦争開戦日にあたって核兵器も戦争もない世界目指して(茅野市在住の被爆者でノーベル平和賞授賞式に出席する藤森俊希さん)

(信濃毎日新聞12月8日)
(信濃毎日新聞12月8日)

2017年12月8日 

長野県原爆被害者の会会長

藤森俊希

 

金曜日のきょう12月8日は、1941年12月8日、日本軍のハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まりました。それから3年3ヶ月後、1945年3月10日東京大空襲、6月23日沖縄戦終結、8月6日広島、9日長崎への米軍による原爆投下によって壊滅状態になり、太平洋戦争は、日本政府のポツダム宣言受諾で、8月15日終戦を迎えました。

 

これら一連の戦争によって、日本では300万人を越す人々が命をおとし、日本が始めた戦争によってアジア諸国で犠牲者は2000万人に及びました。

 

今を生きるわたしたちは、二度と世界の人々の犠牲を生み出す戦争を起こしてはならないことを、きょう12月8日は、日本の歴史を振り返り、戦争も核兵器もない世界を作り出す知恵と力を集める日とすることを心より訴えます。

 

1945年8月、米軍が広島、長崎に原爆を投下し、その年だけで21万人の人々が命を落とし、72年たった現在も原爆による障害で、15万を超す人々が苦しみ続けています。

 

被爆者への健康手帳を発行している長野県庁によると県内には117人の広島、長崎で被爆した方がおられ、多くの人が原爆の後遺症で苦しんでいます。核兵器はもとより、各国の人々の命を奪う戦争は、絶対に起こしてはなりません。

 

広島、長崎から72年目にして、今年7月7日、国連本部での会議で、核兵器禁止条約が国連加盟193ヵ国の6割を超す賛成多数で採択されました。50ヵ国を超す国が賛同し、国連に批准書を提出することで、条約が効力を発揮します。

 

いま、核兵器のない世界をつくる絶好のチャンスです。

被爆者が訴える国際署名に、みなさんの平和を求める思いを込めて署名され、周囲の方によびかけていただくことを心より訴えます。

 

ありがとうございました。

おらほのまちでの戦争体験

戦地に送られた梵鐘の代わりに下げられた「沈黙の鐘」のメッセージ

昭和16年に公布された国家総動員法にもとづく金属回収令によって、生活のなかにあるあらゆる金属類は根こそぎ回収。お寺の梵鐘も戦地に送られた。写真は称名寺の石の鐘(信濃町)、明専寺の石の鐘(信濃町)、徳満寺のコンクリート梵鐘(飯綱町・いいづな歴史ふれあい館)、明円寺のコンクリート梵鐘(長野市豊野)

聴こう!石の鐘のメッセージ

「幸せになれる」と渡った満州で待っていたのは、ソ連侵攻と死の逃避行だった

「終戦も信じられず集団自決した六百余名の霊を慰めんとしてこの碑を建立す」。中野市・東山公園の「高社郷開拓団」の慰霊塔。「幸せになれる」という国策のもとで渡った満州でのソ連侵攻。関東軍は団をソ連軍の盾として見捨て、逃走。軍隊にも国にも見捨てられた高社郷開拓団は、親が自分の子を殺し、大人同士で殺し合う集団自決に追い込まれた。

満蒙開拓で満州に渡り集団自決した私の祖母の姉

戦争の悲惨さと平和の尊さを次世代に語りつぐ拠点とすることを目指す満蒙開拓団平和記念館。約27万人にのぼる満蒙開拓団のうち長野県は全国最多の3万3000人。特に阿智村のある飯田・下伊那は8300人余と県内最多。阿智村の開拓団には、後に“中国残留孤児の父”と慕われた長岳寺住職・故山本慈昭さんがいた。動画は前阿智村長の岡庭一雄さんの講演。「『幸せになれる』という国策のもとで、正しい情報が知らされないまま渡った満州で待っていたのはソ連侵攻と死の逃避行だった」「国の言う通りに追随していたら、自治体は、戦争荷担の、侵略の先兵になってしまう。それが満蒙開拓団に多くの人々を送り込んだ長野の村々の教訓だ。自治体は住民のためにどうしたら良いのかを一生懸命に考えなくてはいけない」

山本慈昭さんの精神を受け継ごう


松代大本営建設で連行された朝鮮人と地元住民の苦しみ

松代大本営は、アジア・太平洋戦争末期の1944年夏に、「本土決戦」を叫ぶ旧日本軍が最後の拠点として、東京から現・長野市松代町に、大本営、政府各省等を極秘のうちに移転することが計画され、建設が行われた地下軍事施設群。工事は鹿島組と西松組が請け負い、主に朝鮮人労働者が従事。その数は強制連行と自主渡航による7千人前後と推定されているが、工事犠牲者の数や実態は明らかになっていない。日本人も国家総動員法に基づき勤労動員された。学徒勤労動員もあった。

信州の戦争の歴史について書こうとする時、松代大本営建設は欠かせない

 

旧陸軍伊那飛行場跡地

伊那市にある旧陸軍伊那飛行場跡地。工事は学徒動員や朝鮮人の過酷な労働によって行われた。今は静かな住宅街。弾薬庫が民家の倉庫となって残っている。

特攻隊員として「所感」を出撃前夜に書き残した上原良司

上原良司は、陸軍特別攻撃隊第56振武隊員だった。1945年5月11日午前6時15分、三式戦闘機「飛燕」に搭乗し知覧基地から出撃、約3時間後に沖縄県嘉手納の米国機動部隊に突入して戦死、享年22。戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)では「所感」という題名の遺書が巻頭に掲載されている。写真は上原の記念碑(池田町)、上原が特攻前に家族に別れを告げた場所(安曇野市)、妹の上原清子さん(松本市在住)

上原良司の妹、清子さんにお話をきいて

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【信州・安曇野】「靖国には行かない」と特攻に散った上原良司が家族に別れを告げた場所で、私たちが感じたこと

安曇野の乳房川

特攻隊員・上原良司の妹、清子さんに聞き取りをしました。良司も清子さんも大好きだった安曇野の乳房川へ。ここは良司が故郷を離れるときに三度も「さようなら」と言って別れを告げた場所。

 

3人のお兄さんを戦争で亡くした清子さん。

───あの戦争はどうして始まったんでしょうね。

・・・・すみません。

・・・・皆さんは歴史に学び、自分の考えをしっかりもってください。 

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山本慈昭さんの精神を受け継ごう(映画「望郷の鐘」原作・和田登さん)

毎月19日の長野市のアクション、8月19日は映画「望郷の鐘」原作者の和田登さん(長野市在住)から「山本慈昭さんの精神を受け継ごう」というメッセージをいただきました。映画「望郷の鐘」の主人公の山本慈昭さんは、長野県下伊那郡阿智村の出身。みずからも満州で過酷な体験にあいながらも、生涯を中国残留孤児たちの肉親探しにささげ、献身的な愛で支えました。

山本慈昭さんの精神を受け継ごう

現代は、世界各地での紛争や戦争、テロなどが話題にのぼらない日がないほどになってきています。

そのような様相に地球上がおおわれてきている理由の一つに、経済のグローバル化があげられます。グローバル化してくるにつれ、自国の経済エゴイズムにおちいり、ナショナリズムが勢いづいてきます。

自国の繁栄のためには、他国や異民族のことなどかまっていられるか、といった風潮に陥っているのです。

そうしたなか、日本の安倍総理は、「歴史と謙虚に向き合い」と、全国戦没者追悼式典で述べていましたが、私には虚言としか思えませんでした。

「積極的平和主義」をとなえつつ、それに反する武器輸出に熱心な姿は異様に感じられます。兵器産業で落ち込んだアベノミクスを挽回しようとするのでしょうか。

なお、過去の日本の犯した醜い歴史についても、教育現場やメディアには隠ぺいをしいる戦後最も危険な総理です。けれど、それを支える組織勢力が多数存在します。組織以外でも、歴史について正しい知識をもたない世代が育っており、このままいくと、ますます日本式のナショナリズムが頭角を現し、また戦争へと向かいかねません。 

私たちが現在、最も欠けているのは、よその国や異民族に対する想像力

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「信州に関わる戦争について書こうとする時、松代大本営建設で連行された朝鮮人と地元住民の苦しみ、そして満蒙開拓は欠かせない」(児童文学作家で映画「望郷の鐘」原作の和田登さん)

10月28日、信州の戦争の歴史に詳しい和田登さん(児童文学作家、映画「望郷の鐘」原作)のお話を聞く会をおこないました。テキストに和田さんが書かれた「キムの十字架 夏海の、これから」。

 

この小説の「高子バーバ」のモデルになっているのが山根昌子さんです。

 

“山根昌子(やまねまさこ)さん、1939年生まれ。父は朝鮮人、母は日本人。第二次大戦末期、父は松代(まつしろ)大本営の工事に動員され、一家で朝鮮人飯場に住まわされていた”

“彼女は東京で模型店を経営しながら、懸命に子どもを育てる。『戦争』も『朝鮮』も忘れたい言葉だった。だがある日、松代大本営について書いた本と出合い、逃げずに自ら真相を究明する決意を固める”

“ここで一体どれだけの朝鮮人が犠牲になったのか。その一人一人が名前を持ち、家族や友人がいて、温かな血の流れるかけがえのない人間だった。せめて真実を明らかにし、彼らの魂を手厚く弔いたい-。遺体の行方すらわからない松代大本営の闇に、山根さんは挑んだ”

コラム「南風」 山根昌子さんの憤死 - 琉球新報2012年8月28日

 

「松代大本営について書いた本」というのは、和田さんが書いた小説で、アニメ映画化もされた「キムの十字架」。日本軍によって弾圧された朝鮮人の若者の眼を通して戦争の犠牲となった朝鮮の人々の姿が描かれています。

 

和田さんは、「信州に関わる戦争について書こうとする時、松代大本営建設で連行された朝鮮人と地元住民の苦しみ、そして満蒙開拓は欠かせない」「今日に戦争を考える際に、どうしても落としてしまうことは、加害者の側に立った想像力を働かすこと。戦争を題材にした多くの児童文学作品がありますが、それらは兵隊になって戦争に出て行ったお父さんを失う悲しみを描いていますが、その出て行った兵隊たちがなにをしたかは描かれていない。向こうにいって何をしたかという実態をもっともっと私達は知るべきだと思います」と言います。

 

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私たちはこれからも歴史を学びます。ときに時間を使い、足を使い、孤独になり、そして今を考えます。小さくてもできる自分自身の行動とともに。

長野県中野市、高社山の麓にある谷厳寺には、憲法9条の碑が建っています。このお寺には学童疎開を受け入れた歴史があり、「二度と戦争はしてはいけない」の思いの結晶です。また、高社山から名をとった高社郷開拓団が「幸せになれる」と信じて国策の満蒙開拓にむかった歴史もこの地にはあります。そこで待っていたのはソ連侵攻でした。終戦後も終戦を信じられず、600余名の人たちが親が自分の子を殺し、大人同士で殺し合う「集団自決」に追い込まれたのでした。

12・19スタンディングアピールでのスピーチ(千曲の母ちゃん)

私は昨年の安保法制の問題から政治に目を向け始めた主婦です。この1年で見てきたものや感じてきたことがあります。

 

先日、松代大本営についてお話を聞く機会がありました。小学生のころ見学へ行きましたがその時の自分の感じたことはいつしか忘れ去り、だからこそまっさらな気持ちで向かい合うことができました。朝鮮人労働の話を改めて聞いたり、その後本を読む中で、私の中で、70年も前の顔も知らない人たちに対して、そして歴史が作った差別によって今もなお苦しむ人たちに対して。初めて。恥ずかしいけれど初めて。日本という国がしたこと。自分の生きてきた国がしたことの重みを感じ、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 

戦争の反省とは自分でも分かっているつもりでも、やはりどこかで戦争は昔の人がやったこと、ヘイトスピーチなどもやっている人たちだけが悪いという意識があったのだとおもいました。自分のこととして考える、想像する力が足りていなかったと気づきました。

 

憲法や教育基本法について知る中で原点にある「戦争の反省」を感じました。その一方、平和貢献や、平和利用という聞こえの良い言葉を使いながらも一番の根本である「反省」を抜かし、認めることさえも拒み、なかったことにしようとする歩みがあることも知りました。

 

戦争によって日本がしたこと。これはどんなに歴史の教科書から文字を消しても、行われた事実を消すことにはなりません。戦争の中で、その反省の中で、一番中心になるものは人の命です。失われた日本人の命も、日本人が奪った命も、その重みに違いはないのです。その重みに違いを付け、なかったかのようにしてきた人たちが、今日本人の命さえも軽視しこれは国際貢献だと言って戦場へ送り出しているのです。

命を産み、育む女性の一人として私はこれを許しません。

 

昨年発足したママの会のスローガンは「だれの子どももころさせない」です。自分のこどもを守るだけではない。誰のこどもも殺されたくない。誰かの子どもが誰かの子どもを殺させることもさせない。この言葉にはその覚悟があると、一人のお母さんが言いました。日本ができることは、命を捨てることですか?平和のためと言って誰かの命を奪うことですか?私は違うと思います。今、日本に必要なことは、もう一度、戦争を知ることです。それは戦争とは被害にあうことだけでなく、加害の立場にもなることを含めてです。南スーダンで少年兵になった子どもたちは、日本にとってどんな理由で敵とみなされるのでしょうか。日本が考える、ではないのです。相手から見て日本の自衛隊がどんな存在になるか、日本という国がどう見られるようになるかを考えてください。9条を掲げ、武器を持たずに歩んできた日本の役割は、もっと別の形で存在するはずです。

 

私のこの1年間は、知らなかったことを知れたという楽しいものではありませんでした。

知らなければよかったと思うことの方が多い毎日でした。女性や母親が運動をやっていることに対する社会からの見られ方もとても窮屈で、苦しく感じたこともありました。

 

私たちは流行に流され、目まぐるしい社会の変化に翻弄され、身の回りのことに必死で、真実を見つけるための時間を作ることも不可能かのような日常です。インターネットには真実のようなウソが真実のような顔をして溢れています。答えが欲しくて探してみても、また新しい情報に振り回され、疲れてきて離れようとしても置いて行かれる気がして手放せず、でもそれは信じる道を失いに自ら飛び込んでいるように感じます。人に会ったり、足を運んだりすることは時間も労力も必要です。けれどそこでの出会いや知り得た事実、対話を通して生まれた自分の考えはとても大切なものだと知りました。多くの誰かと同じだから正しいとか、他の人と考え方が違うから間違いとか、そういうことは問題ではないのです。

 

私はこれからも歴史を学びます。時に時間を使い、足を使い、孤独になり。そして今を考えます。小さくてもできる自分自身の行動とともに。

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多くの教員が教壇を追われた二・四事件

教員の高木義隆さんのスピーチ(4・23共謀罪反対パレードinながの)

長野県教職員組合執行委員長の高木義隆です。

共謀罪法案は、私たちの平和や民主主義を求める運動に対して監視を強化し、民衆弾圧へとつながる法案です。

この法案は「現代の治安維持法」と言われていますが、戦前の治安維持法成立時、政府はなんと説明していたか、「一般の市民には影響はありません」です。今の政府と同様の説明だったのです。

しかし現実はどうだったのでしょうか。

 

この長野県で治安維持法による大弾圧がおこなわれました。2・4事件です。

治安維持法が成立してから8年後の1933年、2月4日から半年あまりの間に、長野県で多数の労働者、農民、学校の教員などが治安維持法違反として検挙されました。全検挙者608名のうち230人が教員でした。

この2・4事件の弾圧によって、多くの教員が教壇を追われました。

その結果、長野県の教育は、それまでつちかわれてきた、「子どもたちの現実から出発し、子どもたちを大切にする」という自由主義教育の伝統も失われたのです。

そして長野県は全国で一番大勢の子どもたちを満蒙開拓青少年義勇軍として、満州(今の中国東北部)へと送り出していくことにつながっていきました。

昨日の信濃毎日新聞で、2・4事件で摘発された教員の子どもの方のコメントがのっていました。

「市民に弾圧が及んだ時代を、今の政治家は知っているのだろうか」

 

私たちは、過去の歴史に学ばなければなりません。そして、今の時代を生きる歴史の主人公として、民主主義を構成する主権者の1人として声をあげます。

未来に生きる子どもたちのためにも、共謀罪を廃案に追いこみ、民主主義を守りましょう。

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