「コロナ禍の生活綴方」(コロナと暮らし実行委員会・信濃義人)

「コロナと暮らし実行委員会」は、長野県在住、出身の女性や母親、学生、弁護士、社会運動関係者などによる実行委員会です。昨年、2020年秋に計画したコロナと暮らしを考えるシンポジウムを、コロナ禍により延期としました。その代わりに直面している現実や思いを文章や絵につづることにし、知り合いなどにも呼びかけました。

コロナ禍の「非常時」のもとでのテレビやインターネットの喧騒、こうした喧騒のもとに埋もれた切実な声や実態があるのではないか、この空白を埋めたいと思ったことが、「コロナ禍の生活綴方」をはじめたきっかけです。

 

「友人らとの当たり前の日常がなくなってつらい」とつづった大学生は、生活綴方の持つ力について、こう語っています。「生活綴方は生活に起こったことや五感からの刺激、感情を『見つめる』ことを必要とする。見つめて、記す。たったこれだけである。この『見つめる』行為が生活綴方の中心だ。そこに他人の視点は存在しない。自分に素直にならないと生活綴方は書けない。生活綴方は決して五感や感情を無視しない。むしろ歓迎し、回復や前進につなげる。コロナ禍の生活の変動や政治の無策失策からの回復に生活綴方は最高の手段だ」。

 

生活綴方、生活画(自由画、想画)は、ありのままの生活と自己を見つめ、感じていることを、文章や絵で表現することです。大正時代に始まり、手本を書き写すだけだった作文や図画の授業に新風を吹き込みました。昭和にかけて盛んになり、戦後も実践されました。1950年代には、農村や工場の青年、家庭の主婦の間で、生活をありのままに書き、仲間で読み合い、新しい生き方を話し合う生活記録運動が、全国各地に広がりました。

南米チリでは、1973年から90年まで続いたピノチェト大統領の軍事独裁政権により、家族を奪われた女性たちが中心となり、自国の現状を世界に訴えるアルピジェラというパッチワークが広がりました。女性たちは共同作業で、アルピジェラを作りました。バラバラにされた生活をパッチワークで復元し、つなぎあわせることで癒され、生産と収入の場だけでなく、発言の場となり、生きている実感を与え、独裁政治に立ち向かう力となりました。

 

コロナ禍で、いや、その前からすでにそうだったかもしれませんが、私たちのバラバラにされた生活が、こうして本になったことでつなぎあわさりました。この本を読んでいただいたみなさんのところで、生活を記録し、読みあって、より良く、より人間らしく生きようと話し合う場が、広がっていけばいいなと思っています。

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参院長野補選立候補予定者への政策要望書(コロナと暮らし実行委員会)と小松ゆたかさん、羽田次郎さんのコメント

 コロナと暮らし実行委員会では、長野県内在住者や出身者から「コロナ禍の生活綴方」を集めています。今後、冊子にする予定です。 「コロナ禍の生活綴方」の内容から、参院長野補選立候補予定者への政策要望書を作成し届け、コメントをお願いしています。実行委員会も「生活綴方」も女性比が高いものとなっており、女性政策に力点を置きました。

 

 

(1)女性と子どもの権利に関わって

コロナ禍であからさまな女性差別が露呈したことで性差別、男女間の隔たりの問題も大きく議論されています。仕事や育児、介護に感染防止対策が加わり、女性の「疲れた」という声が特徴です。多くの女性が職を失い、DVなどさまざまな困難に直面し、女性と子どもの自殺が増えていることは、きわめて重大です。

雇用、賃金、就学における性差別を撤廃し、選択的夫婦別姓を実現し、すべての人が社会、経済活動に生き生きと参加する当然の権利を保障してください。生理用品の無料配布、消費税率の軽減や非課税を求めます。

DV加害者の厳罰化と被害者のケアを求めます。また性犯罪の厳罰化、同意のない性行為を処罰する刑法改正を求めます。性暴力がもたらす被害は深刻です。被害者の尊厳回復と犯罪抑止のための政策を求めます。

子ども達や学生は、今しか出来ない学校生活を振り回され、奪われています。学費・生活費の確保のためにアルバイトに追われる学生が多くいます。感染拡大防止の手だてを最大限施しながら、学校や大学などでの教育の機会を保障してください。教育予算を拡充し、小中高等学校の少人数学級の実現を求めます。大学、高専、専門学校に対する学費減額と給付型奨学金制度の再検討を求めます。

 

小松ゆたかさん

女性の更なる社会進出と活躍のため、産休明けの女性に対して家計負担を減らし、子育て支援の充実、またシングルマザー世帯に対する包括的な支援制度を整備します。加えて生涯学習の機会を増やし、女性が資格や、デジタル等のスキルを取得しやすい環境を整備します。

夫婦同氏制度の歴史や家族の一体感などは否定せず、その上で別姓を望む夫婦に選択肢を与える趣旨に賛同します。丁寧な議論をしていく必要があると思います。

新型コロナウイルス感染症の影響で経済的に困難な学生が修学、進学を諦めることのないよう、支えることが何より重要と考えております。

学びの継続のための学生支援緊急給付金では、学校が推薦すべきと判断した全ての学生約四十二万人にまずは支給しています。そのうち大学院生は3.4万人、学部生は29.9万人に支給しており、利用されていない額が約35億円だそうですので、この支援給付金を積極的に活用していきます。

 

羽田次郎さん

社会矛盾は弱者にしわ寄せが来ます。コロナ禍による非正規雇用の方をはじめ、サービス業、自営業、文化芸術、その中でも、とりわけ女性の方がまさに危機に直面しています。

03年に小泉内閣で決定した2020年に指導的女性比率30%とする政府目標の15年に努力目標にされ、当初の20年には30年までの目標へ繰り延べとなりました。結果、3月末に発表された日本のジェンダーギャップ指数は156か国中120番目と低迷を極めています。これは実質、政治と政府の怠慢が大きな原因です。経過と成果を見ると意識的なサボタージュとしか思えません。根本的な変革が必要です。

アルバイトができにくい状況の中、苦学生がとりわけ危機的状況にあることは衆目の一致するところです。コロナ禍と少子化の中、子供たちの育成に責任を持つのは、私たちに課せられた社会的責任だと思っています。

 

 

(2)いのちを最優先する政治を

医療・保健や防災、教育・研究、文化・芸術などを切り捨て、「自助努力と自己責任」とする新自由主義の問題が、コロナ禍で浮き彫りになりました。新自由主義から転換し、いのちを最優先する政治を求めます。

新型コロナウイルス対策は、透明性のある公平な行政の理念のもと、科学的知見と事実に基づく合理的な政策決定、適切な情報共有を求めます。

コロナ禍で、医療、教育、介護、保育、障がい者施設、学童保育、福祉の現場は逼迫しています。逼迫している現場の人員の補充や、補助金の検討を求めます。

困窮する親子への支援の拡充を求めます。

文化芸術の作り手たちの心を守る支援の拡充を求めます。

働きたい人が自由に働ける社会を求めます。最低賃金「1500円」の実現、週40時間働けば人間らしい生活ができる社会の実現を求めます。

コロナ対策による権利制限は、対価として補償を求めます。

 

小松ゆたかさん

新型コロナウイルスと戦う県内の医療機関の体制強化を図るなど、安心して治療を続けられる地域医療を構築します。また地方の医師・看護師確保に加え医療・介護の現場、保健所の負担を軽減し、県民が安心して医療や介護を受けられるよう、AI、ロボット活用等の最先端のデジタル 医療、予防医学を産学連携で推進します。さらに介護・年金などの福祉・社会保障を充実させ、誰もが安心して生活し、将来の展望できる社会を作ります。

これまでの感染拡大時の経験も踏まえ、国・自治体は医療・検査体制を更に強化する努力が必要です。社会経済活動を継続しつつ、再度の感染拡大を防止し、重症者・死亡者の発生を可能な限り抑制するため、変異株対策やモニタリング検査、積極的疫学調査を強化するとともに、病床・宿泊療養施設と医療人材の確保、後方支援を担う医療機関等の確保や転院支援の仕組みの導入等が必要と考えます。

 

羽田次郎さん

内閣の経済ブレーンに竹中平蔵がついたことで、菅政権の新自由主義的傾向は明らかになりました。さらに、菅内閣は自助優先を強調し、公助は補完であるとの立場です。

命よりも経済優先、公助より自助優先の政治では危なすぎます。何としても政治の方向を変換しなければなりません。

 

 

(3)私たちが生きる公共の場をつくるために

私達の憲法、法制度には人間の苦境を救済する力があります。主権者が、自分たちの生きる公共の場をどのように作り出すか自由闊達に議論し、決めていくという民主主義、立憲主義の回復を求めます。

コロナ下で生活に困窮する家庭も増えています。声をあげられずにいる子どもや保護者にいち早く気づき、支え合いながら社会にも働きかける仕組みを検討してください。

校則を含むルールの決定過程に子どもも関われる仕組みを検討してください。

 

小松ゆたかさん

政治は一定の期間で、選挙という形で国民の審判を受けます。国民の皆様に評価していただければ議席を守れますし、そうでなければ議席を失います。そうした国民の代表である政治家が行政をリードする、民意を踏まえて指導する、憲法に基づいて政治を行うことが民主主義や立憲主義であると考えています。

弱い立場の方々が、より厳しい環境にさらされます。そのような視点から、政府では先週、女性・非正規の皆さんや、ひとり親家庭(二人親でも厳しい家庭もあります)、更には望まない孤独にさいなまれている人たちへの支援が決まりました。コロナ禍の長期化を踏まえ、既に実施している緊急小口資金はもとより、総合支援資金を活用し、弱い立場の方たちを支えます。

 

羽田次郎さん

だれのための政治、だれのための制度かを問い直せねばなりません。「自分たちに運用されるルールは自分たちで決められることの制度化」が、民主主義の第一歩だと思います。

 

 

(4)差別解消、人権尊重で、持続可能な地域社会を

コロナの蔓延による経済的困窮、移動制限などの社会的な苦しみ、差別や中傷、分断が深刻な問題になっています。アジア太平洋戦争や原発事故など、過去の過ちを活かし、差別解消、人権尊重で、持続可能な地域社会を求めます。

 

小松ゆたかさん

まず、対象がどのような方かに関わらず、そもそも差別というものは許されないと思っております。差別を生まないために大事なのは、お互いの違いを認め合うことだと思います。世界の人口は76億人程度と言われていますが、誰一人として同じ人はいません。一人一人が違うということは、種として生き延びるためにも必要なことです。それを、どこかで線を引いて、差別すること自体が非常に良くないことだと思います。

SDGsには、貧困、飢餓対策から健康、教育、ジェンダー、環境、経済成長など、テーマは多岐にわたり、いずれも大事な課題ばかりです。みんなが多様性についての認識を醸成していくということが大事だと思います。

 

羽田次郎さん

差別、格差、人権の問題は日本ではコロナ禍を機に顕在化しました。これを過去の反省を基に克服することが、貴会提案の持続可能な地域社会を形成するとの提案に同意します。

 

 

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危機の中で(信州の非正規工場労働者、そして信州の政治的文筆家)

関東の地味な大学の片隅で、ボンクラ学生として政治学を学んでいた頃の私に、とある教授が話してくれた事がある。「政治学は今の社会にさして必要とされていないのだ」と。「行政学等の分野は少し事情が違うが、理想の政治社会の形を追い求める政治学は、現実の政治や社会からは寧ろ敬遠されているのだ」と。「だから、社会が君達を必要とする事は、もしかしたら無いのかも知れない」。そう語る教授はどこか寂しげだった。

 …政治は、政治学は何と無力なのだろう?大学を去り、郷里信州の社会に身を投じてから六年半。その間、幾度となくそう考えた。シビアな労働・生活の現状に直面する度に。テレビや新聞が海外の紛争・災害・事件を伝える瞬間も。大切な家族・仲間の苦境を前に、自分の無力さを感じたあの時も。自分達の共同体・社会が不穏な方向に進んで行くのを、指を咥えて見ている事しか出来ないこの状況においても。

 

そして今、私は……私達は感染症拡大に端を発する社会的危機の直中にいる。国内外で多くの人間が感染症に感染し苦しんでいる。経済は危機に動揺し、これまでどうにか誤魔化してきた社会問題の数々を露呈させている。特に多くの困難に晒されているのが中小事業体であり、一人一人が人生を生きている無数の勤労者である。

失業や生活苦に晒される人々に対し、政治体による救済は後手に廻っている。政治体は既に人間のアソシエーションとしての本質・使命を失いかけているのだ。肥大化・複雑化したシステムによる「管理・統制」と化した現代の政治は、一人一人の成員の声に耳を傾け、協同の力でその苦境・問題を解消する事には極めて消極的だ。今、政治体が優先的に守ろうとしているのは利権や不文律によって固められた経済社会の構造・メカニズム・体制であって、そこに生きる一人一人の人間ではないのだ。

 

無力と言えば、大学を去ってから殆どワーキングプアとして生活して来てしまった私も偉そうな事は言えない。今の私は休業の増加によって減額された賃金で生活を成り立たせようと四苦八苦していて、他者の苦境に寄り添う余力も失いかけている。そんな自分に気付く度に、私は情けなくも思うし、酷く寂しい気にもなる。四年間政治学を学び、郷里の社会を知ろうと労働の現場に身を投じたにも関わらず、自分は何と無力なのか。私の政治学は何と無力なのだ、と…。

 

しかし、私には忘れられない記憶がある。それは家族と過ごした幸福な時間であったり、学生時代の仲間との他愛のない論議であったり、仕事終わりに雑談を楽しんだ師匠や同僚達との思い出であったり。そして、政治学は今の社会に必要とされていないと語った教授が、その後に続けた言葉がある。「それでも、政治学は自由な学問なんだよ。自分達が生きる政治社会の形について、僕達はどこまでも自由に創造して行く事が出来るのだ。だから、その自由な学問に触れられた事を誇りにして欲しい」と。

 

 

その記憶があるからこそ、私は未だ夢を見続けている。人間の創造的・討議的な活動としての政治の持つ価値を信じている。政治に向き合う市民の思索と行動が、社会を震わせ、人々の自由で水平な連帯を作り出せると信じている。私達の政治共同体・憲章・法制度には人間の苦境を救済する力があると信じているし、その機能を引き出せるのは「特定の人々や機関による、統治・管理としての政治運用」ではなく、「広範な市民による、自治・討議としての政治的活動」なのだと、信じて止まない。故に、私は自らの思索を文章として紡ぎ、社会にそれを投ずる。仮令、この感染症危機の渦中にいようとも。

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コロナ禍で明らかになった新自由主義政策が医療・保健・防災・教育を破壊したこと (東京都立大学特任教授・宮下与兵衛)

 

新自由主義政策が社会を変えてしまった

1980 年代から英国、米国、そして日本と新自由主義国家に転換されていきました。

(ヨーロッパ各国では国民がたたかいを続けています。北欧諸国は福祉国家を守っています) それまでの資本主義の弱点を社会主義的に修正した「ゆりかごから墓場まで」の福祉国家主義をやめて、「小さな政府」にして「福祉・教育の切り捨て」をして「自助

努力と自己責任」にしたのです。国の財産である国鉄・専売公社・郵政などは民営化して企業にしてしまいました。企業の活動には規制を取り払い、「市場原理主義」で弱肉強食の競争をさせて負け組になった企業は淘汰されていきました。企業がもうけ第一主義の「非正規雇用(2,120 万人)」「派遣労働(300 万人)」を自由にできるように政府は法律を変え、その結果、ブラック職場が増え、ワーキング・プア(年収 200 万円未満の人。1,900 万人)、リストラ・過労死が急増しました。

日本では小泉政権から「郵政民営化」など新自由主義政策が本格化し、その後の安倍政権での 20 年間で政府がやってきたさまざまな破壊がコロナ禍で明らかになりました。

 

 ①医療・保健体制の破壊

医療・保健では全国の保健所が 850 から 472 に半減(東京では 71 から 31 に削減)。全国の感染病床は 9,060 床から 1,869 床に削減。コロナに対応できない保健・医療体制にしてしまいました。さらに公立と日赤の病院の3分の1の 424 病院(うち 24 病院は感染症病床あり)の統廃合計画を 2019 年 9 月に発表しています。

厚生労働省は保健所が認めないと PCR 検査ができないようにして医療崩壊にならないようにしていますが、国民は発症しないと検査を受けられません。ドイツや韓国などと全く違います。感染症の専門家は秋冬にはインフルエンザとコロナで大変な事態になり医療崩壊が起きると警告しています。また、コロナによる収入減で、全国の病院の 67%、東京の病院の 89%が赤字となり、6月のボーナスをカットした病院は全国で 34%になりました。

コロナ対策では、経済優先・人命軽視の新自由主義政策をとったトランプ大統領(米)やボルソナロ大統領(ブラジル)やボリス・ジョンソン首相(英)のコロナ対策は失敗して、感染者数は米国1位、ブラジル2位です。ボリス・ジョンソン首相は新自由主義政策を世界で最初に始めたサッチャー首相の言葉「この世界に社会(人々が助け合う公平・平等・連帯の社会)などというものはない、頼れるのは個人と家族だけだ」という言葉を主張していましたが、自ら感染して入院し手厚い看護によって生きながらえ退院した時には「社会はあった」と記者会見で述べたのです。新自由主義の敗北です。

新自由主義政策によって貧困が拡大し、格差社会となり、富裕層(都市郊外に一軒家)と貧困層(都市中心部でアパート、ホームレスは米国 57 万人、英国 37 万人、仏国 25 万人)の住む場所が分かれ、その貧困層の住む場所でコロナは広がりました。貧困層は健康保険証を持てない(米国3千万人)ためにコロナに感染しても病院に行けずに感染地帯になっています。

世界中で貧困地域が最も感染地域になっています。ニューヨークでは、メキシコ系などのヒスパニックの死亡者比率は全体の34%、黒人は 28%です。

 

②防災体制の破壊

防災体制では、全国 103 の測候所を無人化・自動観測にしたため、例えば御岳山の噴火を登山客に知らせることができませんでした。また国有林管理の営林署職員 81,000 人を 5,700人に削減したため、国有林は管理されず荒れ果てて大雨で土石流を生んでいます。長崎大学の国際保健学の山本太郎教授は「最近 20 年間の新型ウイルスの頻発は地球温暖化による熱帯雨林の縮小、人間の森林破壊などの影響が大きい」としています。

 

③教育・研究体制の破壊

教育・研究分野では、国立大学や研究機関への運営交付金が 2004 年の独立法人化から年1%ずつ減らされ 16%減となり、1,600 億円も減らされて基礎研究費がありません。(私立は経常費補助金の削減)。そのため基礎研究であるウイルスの研究者は減少しました。また、大学はお金がないために教員の補充が減り、ポスドクという大学院を出て博士号を取得しても就職できない研究者が一万人もいます。

GDP 国内総生産に占める国の教育費の割合は 2.9%でОECD加盟国 34 ヵ国中最下位で、そのため大学の授業料は 1970 年から 50 倍(物価は 4.2 倍のみ)になりました。

国立天文台の水沢天文台は無人化され、野辺山宇宙電波観測所は 40 人から今年 2 月に 26人にされ、2 年後には 13 人にされてしまいます。国は大学には軍事研究をすれば多額な研究費を出す、天文台には人を減らさないと脅してきたのを、国立天文台は拒否し、多くの大学も拒否しています。

政府による一斉休校措置で、休校中の子どもたちに教育格差が歴然と現れました。

以前から ICT による教育(生徒は1人一台のタブレットを持ち、学校でも自宅でもそれで学習できる)を受けていた私立「進学校」、公立・私立の中高一貫校、公立「進学校」では休校中もオンラインのタブレットによって毎日学習できましたが、そうした環境・設備・器具のない公立の学校ではほとんど学習を保障できませんでした。このために、夏休みを削って猛暑の中で授業をさせました。格差は夏休みにも出て、全生徒がタブレットを持っていて休校中も学習できた世田谷区は夏休みが 31 日間、渋谷区は 30 日間、タブレットがないために学習できなかった足立区・荒川区・葛飾区・江戸川区などの下町地域の区は 16 日間になりました。その他の区の夏休みは 23~24 日が多かったのです。

渋谷区内の全世帯の平均年収は 873 万円、世田谷区は 569 万円ですが、夏休みが 16 日間だった足立区などはみな年収 300 万円台の地域です。(2019 年の年収)朝日新聞に掲載されたデータでは、パソコン・タブレットを持っていない家庭は年収 400 万円以下では 30%、400~600 万円になると半減して 17%、600~800 万円が 12%、800~1,000 万円が 10%となっています。世田谷区や渋谷区はタブレットなどを持っていない家庭が少なく、また区の財政も豊かなので、タブレットのない家庭には無償で貸与しました。家庭の経済格差は学力格差を生んできましたが、それが一斉休校によって格差の拡大に拍車をかけたのです。(2020年11月19日)

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コロナ禍の中で思うこと、正直疲れてしまいました(長野県北信地区出身、在住のパート主婦)

長野県北信地区出身、在住のパート主婦です。コロナ禍の中で思うこと。 たくさんあります。正直疲れてしまいました。

 

コロナが身近に差し迫りながらもどこか他人事。そんなツケが回ってきてしまったかのようです。長野県は保守的です。 コロナの件で、長野がイジメが多く、自殺率全国1位という数字を知りました。 生まれ育った長野の土地から県外へ出て、長野の良さを改めて感じて戻ってきただけに、その事実はショックでした。コロナ禍での村八分、差別、投石や誹謗中傷などの話を風の便りで聞くと、現実の話なのだなと悲しい気持ちでいっぱいです。コロナで皆んな心が疲弊して貧しくなり、人間同士のイヤな部分が露呈しているように感じます。

 

政府は無責任で無策な対応しかしません。国民の生活には目を向けていない様に感じます。

 

あからさまな差別が露呈したことで性差別、男女間の隔たりの問題も大きく議論されていますが、まだまだ双方の理解の溝を埋めるのには時間がかかりそうです。子ども達はコロナ対策の被害者です。今しか出来ない学校生活を振り回され、奪われています。

 

コロナは恐いです。 でも私が何より恐れているのはコロナに羅患して起こり得る、差別や誹謗中傷などの行動です。 コロナが今誰がかかってもおかしくない状況下で差別が横行してしまう、それこそが恐ろしいです。人は1人では生きていけません。 1人で生きている様であっても、誰かが育てた作物が無ければ、運搬してくれる人が居なければ、販売してくれる場がなければ、誰も何も得られません。 それは自分以外の誰かが動いているからこそだから、という当たり前のことを考えました。 コロナ禍をきっかけに人それぞれの意識を変えていく必要があると思います。コロナ=差別とならない意識改革が必要かと思います。 それをしないとコロナを恐れて隠す人も増え、いつまでもこの状況は終わりを迎えられないです。

 

長野は保守的な考えの方が多いですが、良くも悪くも他人に干渉し過ぎる部分を考え直す機会になればと思います。

日常が早く戻り、また戻った時にはこのコロナ禍を境に人それぞれの意識改革をレベルアップしていけたら良いな、と思います。

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コロナ禍の影響は想像以上に強烈(S.ねこ、美容師)

私が政治に関心を持ったのは数年前で、認識が浅いのですが、自分が最近感じたことを綴らせていただきます。

 

コロナ禍の影響は想像以上に強烈で、生活が変わってきています。

表面より、もっと深いところです。公務員や、IT系のお仕事の方々は出社形態が変わるに過ぎないかもしれませんが、サービス業自営業。

人が関わる仕事は収入がなくなるかもしれない、危機です。

今は、期間限定の体をそうしていますが、深い根の部分をだいぶ影響受けています。

そのダメージの中、

税金を納めるのは、変わらずやってきます。

猶予はあっても、必ず払わなけばいけない。

昨年度の収入査定で出されたものを、余裕がない小規模、中規模店や業種は借金してまでも払うことになるかもしれません。

その借金を返すあてさえなくなる方もたくさん出るのでは?

と懸念します。

 

廃業、個人資産を売る

など、方法はありますが。

幸せに普通に暮らしたいがために働いていたにすぎないのに、なぜこのようになってしまうのか?

自治体や政府は

人々の暮らしをどう思っているのか?

本当に疑問です。

 

私の祖父は遠く、ウェイク島の戦いで戦死しています。

残された家族はそれは大変で貧しく苦労したと、亡祖母や父から聞きます。

その時とは違う状況ですが

なんら、今も政府の曖昧な政策に翻弄され、悲しい思いをする国民の図式は変わってないように思います。

 

民主主義とはどういうことなんでしょうかね?

 

これから先、若い世代が

未来見つめる社会にしていかなくては…

と思うのに

さらに程遠くなっているようで

切ないです。

 

せめてもは、黙って耐える

より、国民の意思を

もっと世論で伝えていくことも

大事なのでは?

と思っています。

 

暗い文面になりましたが

明るい社会

みんな笑顔になれる生活

になれるよう

願っています。

 

私ができる何か。

 

を探していきます。

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コロナ禍の病院の仕事(あらいぐま・医師)

コロナが流行してから、ひとつひとつの仕事にとても時間がかかるようになりました、急病の患者で、入院や緊急検査が必要な場合は、院内感染を起こさないために、問診や検査などにより、コロナの感染の可能性がないか判断が必要です。その時間がないときは、私たちが重装備して患者対応にあたらないといけません。その間に患者が急変しないか、ひやひやします。

感染のレベルが上がると、他職種とのカンファレンスも制限が必要です。情報共有が難しくなります。また、とても切ないのが、面会制限です。入院してから家族に会えない患者さんが大勢います。お年寄りには、オンラインの面会はなかなか難しいです。亡くなるときも、これまでのように家族みんなでみとっていただくのが難しいです。

食事をとる際にも、他の職員と話ができなくなりました。飲み会もなく、お互いの考えを共有する機会が減りました。

経済が悪化すると、患者さんの受診が遅れないか心配です。

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『コロナ禍の中で演劇をやっていて感じた寂しさと喪失感』(松本市劇団であい舎団員S・K)

私は普段、松本市の芳川(よしかわ)公民館を拠点とし、年に一度のペースで約30年間公演を打ち続ける劇団であい舎に所属し、芝居をしています。劇団であい舎では『基盤は地方(ローカル)に、視野は世界(グローバル)に』を銘に嘘のない芝居づくりを目指し、昭和史などの勉強もしながら、主に社会派の作品を上演し続けてきました。

 

コロナウイルスが流行り出して、ウイルスの危険性が騒がれ始めたのが丁度今年の劇団の活動(公演を含めて)をどうしていくかを、劇団員同士で話し合っていた時でした。コロナの影響を危惧し公演は中止に。

 

毎年公演の期間中は、地元からはもちろん、県外からも多くの方達が公演に足を運んでくれて、会場の公民館は、いつもの公民館と違う少し特別な雰囲気の場所に変わります。

 

「やだ~!ちょっと元気だった?」

 

「今年もであい舎の公演を見に来られて良かったわね。」

 

「また一年元気に生きて、来年もここに集まりましょうね。」

 

お客同士の間でそんな会話が飛び交い、再会を喜びつつ、つらかった事と嬉しかった事、それぞれの一年分の出来事をお互いに報告し合う様な、ただ観劇をしに来るだけが目的じゃない、充実した交流ができる場に、公民館の一室が変わるのです。芝居を見て深く感動して、誰かと思いっきり話して、会場に来た時よりも元気な表情で帰っていく人達の姿を見るのが私は好きで、そんな姿を見ていると「今年も公演を頑張って公演をやって良かった。」と感じ、こちらも元気を貰えていました。コロナの事があったから仕方なかったとはいえ、今年はそんな大切な場所を作りだす事が出来なかった事をとても残念に、そして切なく感じます。

 

そんな状況の中ではありましたが、公演は中止になったものの、であい舎では回数を必要最低限に減らし、様子を見ながら劇団の活動を続けることに。しかし毎日の様にコロナウイルスのニュースが流れ、嫌でもコロナウイルスの情報が入ってくる日々が続くうちに、私の胸の内には、コロナウイルスや人と接触する事への恐怖心や猜疑心が生まれてきていて、であい舎のメンバーと、コロナウイルスが騒がれ始める前の様な距離感で交流をしたり会話をする事が出来なくなっていました。厳しい稽古を何度も一緒に乗り越えながら幾つもの世界を創りあげ、時間をかけて親しくなった相手を、疑いたくないのに疑ってしまう。怖がってしまう。それは劇団のメンバーだけではなく、劇団以外の他の人達に対しても同じでした。今は「コロナウイルスと共生していくしかないんだな。」という思いが私の中にあるので、必要以上にウイルスや人との接触を怖がらなくなったけど、あの時はその事が一番辛かったです。あの状況の中で私は簡単に人への信頼感を失いそうになったし、そんな自分の酷さを自覚し、また楽しく人と会える様になるまでに、けっこうな時間がかかってしまいました。今回気がついたそんな自分の一面にショックを受けたけど、その一面をしっかりと自覚して、今後は気をつていきたいと思います。そのうちに松本市内の公民館が休館となり、であい舎の活動も数ヵ月間止まる事になりました。現在は少しずつ、活動を再開させています。

 

たとえコロナウイルスが落ち着いたとしても、これからはきっと以前と同じ様なやり方や、距離感で稽古をしたり公演を行うことが出来ない。今までお客や劇団員同士で時間をかけて積み上げてきた、やり方や馴染みのある距離感を変えたり捨てなければ、芝居を続けられない。目まぐるしいスピードで変化していく演劇界や世の中の中で、正直、取り残されてしまった様な感覚と寂しさ、喪失感が私の中にあります。胸の内の情熱はそのままなのに、この流れやスピードに乗っていけない人達はどうなるのだろう。

 

このコロナ禍の中でリモート演劇等が生まれ、現在もフェイスシールドの様なものを利用したり、こまめな換気や人同士の間隔や距離に気をつけるなど、様々に対策や工夫が重ねながら演劇の稽古や公演が行われています。今回のコロナの様な事や戦争、他にも大きな事件がおこった時には一発で「演劇なんて必要ない!」「無くなっても誰も困りはしない!」と切り捨てられるか、権力者の道具に使われる危うさを演劇は抱えていると思いますが、「これからどうしていけば良いのか。」「今、自分達に出来ることは何か」を皆それぞれ考え、この状況の中で頑張っています。コロナ禍の中で演劇をやっていて感じた寂しさや喪失感から逃れる事は出来ないけど、私も自分に出来る精一杯の事や、やってみたい事をしっかりと考え行動にうつして、少しずつでも進みたいです。

 

少し話が逸れますが、コロナ禍の中でハッキリと見えてきた様々な課題はもちろん、戦争や憲法のこと、過去の過ちがなかなか活かされない原発や、環境破壊がジワジワと進行中の地球のこと、人知れず切り捨てられる人達がいて、亡くなる人が後を絶たない社会や世界を見ていると、この世界に対して終末を感じるし「経済成長」という言葉に虚しさを感じます。命の価値が経済成長よりも軽い今の仕組みの中での成長は、もう限界地点に来ていると個人的には感じています。今の様な社会を作ってきてしまった一人の大人として感じている、若者や子供達に対しての責任感はとても重たいものだけど、一日一日を一生懸命に生きている子供達や若者を見ていると、自分と他人の命の両方が大切なものだと実感を持てる様な、生きてて良かったと思える様な社会を遺してあげたいと、切実に感じるのです。

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コロナ禍を転じて福となすために。支え合いながら社会にも働きかける仕組みができれば(志木碧、社会福祉士)

私は、様々な理由から学校に行けないお子さんや、困難の中で養育をされているご家庭と関わっています。学校が再開に向けて動き出した5月頃は、先生方も苦労されながら学年ごと・地域ごとなど「分散登校」をしていました。特徴的だったのは、いわゆる「不登校」とされていたお子さんたちが、この間は割と順調に登校できていたことです。大きな集団の中で長時間過ごすことに負担を感じるお子さんでも、少人数で先生の目が行き届き、学校で過ごす時間が短い分散登校のような形なら、学校が居場所になりうるのだと知らされました。また、今までの校則が見直され、「マスクは白色でなければならない」などという決まりは必要なかったことが証明されました。夏の制服は紺色のポロシャツでも良くなり、今でも体操服での登校・授業を認めている学校があります。

 

一方で、コロナウイルス対策が定まらない中、対応が各家庭に任され、「コロナうつ」とでもいう状態になった子もいます。ウイルスがついているのではと気になり、ボトル1本分のせっけんを使ってもまだ手を洗い続ける、先生が消毒したトイレにも入れない、そして「自分が登校している間に家族がコロナで死ぬのではないか」と心配で学校に来られなくなるなど。また、感覚が過敏なお子さんはマスクをつけることが負担で外出できなくなりました。コロナを理由とする欠席を「出席停止」扱いにしたため、不登校傾向の把握に時間がかかったこともあります。さらに、自宅にこもってひたすらゲームやYouTubeに熱中し、生活リズムが乱れて登校できなくなった事例も多く見てきました。

 

こうしたご家庭の相談に乗り、訪問したり様々な機関と協力したりしながら、お子さんが本来持つ力を最大限発揮できるようにするのが私の仕事なのですが、コロナを理由に関わりを拒否されることもあります。信頼関係を築く前に「感染が怖いから」とシャットダウン(の口実に)されると、家庭の中の困難さに迫ることができません。

 

コロナウイルスは、人々の信頼関係とネットワークをも破壊していますが、それに輪をかけたのが政治だと思います。何にどれほど効果があったのか全く検証も反省もされていない「一斉休校」。子どもたちは進学・進級へのまとめができず、新学年になってからの2ヶ月も奪われ、学校再開後は駆け足の授業が行われています。根本的には学習指導要領を見直し、詰め込み教育を正す必要があるでしょう。私は地域で無料学習スペースの運営をしていますが、特に中学1年生の学習への負担感をひしひしと感じます。

 

最後にこれからを生きる子どもたちへ、コロナ禍を転じて福となすために考えたことを書きます。

1.子どもたちに少人数学級を――1クラスに40人では、物理的な距離もとれません。何より一人ひとりの子どもに目が行き届く教育を今こそ実現したい。先生方にも余裕が生まれると思います。

2.校則を含むルールを考え直す――例えば学生服は着たきりで洗濯もままならず、感染症対策としても疑問です。誰のための決まりなのか・本当に必要か、その決定過程に子どもも関われればいいですね。

3.誰もが助け合える社会に――「自助」と「自己責任」ばかりが強調される世の中は暮らしにくい。コロナ下で生活に困窮される家庭も増えています。声をあげられずにいる子どもや保護者にいち早く気づき、支え合いながら社会にも働きかける仕組みができればと思います。

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とりあえずは、わが身を守る為の行動をとろう(路傍の土、パート従業員)

私は東信地方の小さな会社でパートで働いています。

今までいろいろな会社で働いてきましたが、その中でも人間関係においてはどこよりも恵まれた環境で仕事ができていると感じています。

ただ、この新型コロナウイルスが世界中を騒がせるようになってから、その良いはずの人間関係になんとなく居心地の悪いものを感じてしまっています。

 

仕事中はみなマスクをしていますが、昼食の時間はコロナ以前と同様に、1つの部屋に集まり、全員でテーブルを囲んで食べています。当然マスクを外して食事しますが、特に換気もしていないようです。

 

私は、夫が仕事で首都圏へ行くことが多い為、昼休憩のこのスタイルに危険性を感じてそこに加わることをやめました。万が一、感染していた場合を考えてのことです。

水場にある共用のタオルも、以前から全員で同じ物を使うということに違和感を覚えていたので、これを機に使わなくなりました。自分のハンカチを持っていれば済む話ですから。

 

この会社の人たちは、新型コロナは別に怖くない、自分はかからないと思っているのだろうか、と思っていましたが、同僚たちと話すと、それぞれは不安に思っているようですし、都会からの旅行者が飲食店でマスクをせずにお喋りをしている姿を不快に思ったりしているようなのが分かりました。

不安や恐れはあるのに、実際の行動には「自分たちは大丈夫」「この会社の中だけは大丈夫」という意識があるように私には見え、そのズレに、私は一人、戸惑いを抱いています…。外部からの人の出入りはほとんどない職場ですが、もうすでに誰がどこで感染していてもおかしくない状況です。「大丈夫」に根拠があるようにはとても思えません。

 

きっと大丈夫、というのはお互いを信用してのことなのか、大丈夫だと思い込みたいだけなのか。

でももしも誰かが知らずに感染していたら、マスクを外して換気もせずに近い距離で喋りながらお昼ご飯を一緒に食べている人たちは、どうするつもりなんだろう。全員が出社できなくなって、仕事は回らなくなるけれど、そういうリスクは考えないんだろうか…

そういう気持ちを抱くことは、独り善がりなのかもしれません。危機感や警戒心の持ち方は、個人差が大きいのだとつくづく感じます。一人もやもやしながら働く日々ですが、とりあえずは、わが身を守る為の行動をとろうと思います。

 

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保育園の園長をしております。私たち保育園従事者は、毎日、緊張と不安の中で生活しております

保育園の園長をしております。

新型コロナ・ウィルス感染症の感染拡大で、私たち保育園従事者は、毎日、緊張と不安の中で生活しております。国・長野市から度重なる感染予防の通知、自粛要請の通知、がひっきりなしにきています。目に見えないウィルス予防対策。慣れない感染予防に、手探りで、毎日を過ごしてきました。

 近隣でのクラスター発生には、職員で手分けして、保護者に連絡。手洗い・うがいの習慣化。消毒。職員・保護者には、マスク着用。登園は、毎日、こどもたちに検温、体調の確認。健康チェックシートを保護者に義務付け、来園者にも、体温測定、マスクの着用、氏名・所属の記録を取りました。

 園の行事は、ほとんどが、中止。卒園式、運動会も時間短縮、保護者を制限してきました。

研修は、メール研修、オンライン研修になりました。

「第二波」「第三波」と続き、感染者の数に、常に気を配り、現在は、子どもの受け入れ、荷物の受け渡しは、すべて玄関で行い、保護者も園内にはいれていません。

保育従事者は、皆疲れ果てています。もともと、保育園は、三密が避けられません。子どもたちには、免疫力を高めるために、食事をよくとり、早寝早起き、野外で、薄着になって遊ぶことを奨励しています。

 8月には、市の方に、保育者従事者全員の定期的なPCR検査をお願いしましたが、無理ですということでした。

 今回のコロナ禍によって、考えさせられたのは、医療、教育、介護、保育、障がい者施設、学童保育、福祉の現場では逼迫しているということです。経済中心の政策、新自由主義からの脱却を本気になって、考えるときになったと思います。

また、コロナ感染者や、医療従事者に対する、誹謗、中傷についても考えさせられます。皆が、助け合って生きていかねばならないです。

そんなことを考えながら、毎日を過ごしています。子どもたちが、全員帰った後は、本当にホッとする毎日です。

 

上高田保育園園長・藤原睦明

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県外の人を決してウイルス扱いしているのではない。自分達が今までしてきたことがまるで馬鹿みたいだから悔しいのだ(ふたば、製造業)

何年か前に「鳥インフルエンザのような新型のウイルスでパンデミックが起こったらどうなるのか」のような特集を観たことがあって、国や自治体の対応、そして個人で準備しておくものや心構えなどが細かくふれられていた。私は個人で出来る防御として毎年必ず消毒用アルコールは用意していたし、マスクも会社でインフルエンザ予防に付けるように指示されるので買い置きがあった。

だから本当に心配はしていなかった。日本は対応出来る能力があるから大丈夫。

 

でも日本に初の感染者が出る頃から「どうして?」ばかりが口をついて出てきてしまう。

どうして隔離しないのか、どうして検査を広げないのか、どうして人の動きを制限しないのか。理解できない事ばかりが起きていて理解できない自分がおかしいのかとも思ってしまう。

感染を広げないためにする事は決まっているはずで、ただその通りやればいいだけなのにどうしてそうしてくれないんだろう。やる気がないのか、やりたくないのか、面倒くさいのか、どうでもいいのか、本当に国会議事堂に行って聞いてみたいくらい不思議でしょうがない。

 

田舎に住んでいると、親と同居の3世代家族は珍しくなくて4世代すら珍しくないし、兄弟がみんな都会に出て行ってしまって嫁ぎ先の親と実家の親を両方見なくてはいけない人が沢山いる。みんな「年寄りにうつったら大変!」と頑張って対策をしている。会社の人は市外に1度も出ていないという。都会の学校に行った子は「婆ちゃんに何かあったら困る」と春からずっと帰ってこないと聞いたし、娘の同級生でこの春都会に就職した子は年寄りを心配して帰って来させないようにしているという。我が家の子供は地元で就職したので連れ立って買い物をしている時に会ったりすると申し訳ない気持ちになる。

 

みんな寂しい思いをしながら、不安を抱えながら、ストレスを溜めながら、年寄りや子供を守るために本当に頑張ってきたのに、なぜ、GO TO???

高齢者が多い田舎、自分の家に居なくても隣近所に居る爺婆まで心配し、施設や保育園に勤めている人がいるお宅にはマスクしてアルコール持って玄関口でなるべく早く用事を済ませるようにしてきたのに。

土日になれば地域の年寄りが老人カー押してトコトコと買い物に行くスーパーに一目で都会の人と分かる人達が野菜が安いと喜んで買っている。道の駅などは見たこともない珍しい地名のナンバーの車まであって、日本中が動いているのがよく分かる。

 

県外の人を決してウイルス扱いしているのではない。自分達が今までしてきたことがまるで馬鹿みたいだから悔しいのだ。

 

ヨーロッパではまたロックダウンし始めた。まだ冬は始まっていないのに。それでも日本はGO TO。一体私の住んでいる国はどうなっていくんだろう。それともこんな風に考えている私の頭がおかしいのだろうか?誰か教えて欲しい。

 

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早く新型コロナウイルスが終息し、当たり前の日常に戻れますように(まこ)

新型コロナの感染が拡がり、学校が休業になった3月。我が家の子ども達は、突然の事態に「アベのやろう!」と怒って帰って来ました。この決定には納得が出来なく、休業中子ども達は、とてもイライラしていました。課題も、休業が延びる度に増え、予習の範囲を見る親も大変でした。親が先生になると、親子関係が崩れます。

 

店頭からマスク、ハンドソープ、消毒など感染予防製品が消えました。夏頃になると、毎日のようにテレビのニュースで報道される感染者数に、下の子は脅え小さい心が不安でいっぱいになっていました。

 

学校では35人の教室で過ごし、何かする度に手を洗う。運動会は体育参観日に縮小され、中学校の修学旅行は県内日帰り研修旅行に、文化祭もリモート、音楽会も3部に分けてマスク着用での合唱、部活の大会、コンクールも全て中止になりました。それなのに、国はGO TO キャンペーンを始めました。そして、感染拡大。

子どもは、「私達は我慢しているのに、大人がどうして!」 とニュースを見ながら怒っていました。

 

 私は、子ども達の毎朝の検温と健康チェックカードの記入に、疲れを感じています。ただでさえ、忙しい朝。負担は大きく、早く解放されたいです。

 

 日本の政治家には、頭の良い人はいないのでしょうか。自分の利権しか、頭にないのかな。

 早く新型コロナウイルスが終息し、当たり前の日常に戻れますように。

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朝刊の配達、日中は配送の仕事とダブルワークをしている主婦です

バブル時に派手に事業を拡げ崩壊した義兄のあおりを受け、我が家を手放し、子どもがそれぞれになるまでは…と必死に働いて今に至っています。でも、一向に楽にならない暮らし。何故でしょうか?

格差は拡がるばかりです。そこへ追い討ちをかけるような新型コロナ感染症。長引くコロナ禍で雇用は悪化し、非正規労働者や女性、一人親世帯に痛みが集中しているのではないでしょうか?

住むところを失う人たち、空腹を我慢する親子、夢を諦める子ども達…等々。困窮している人たちを救えない情けない政府。おかしくないですか?困窮する人たち、底辺にいる人たちに救いの手を差し伸べるのが政治本来の仕事ではないですか?

一日も早く、この冷酷な政治が終わりますように…と毎朝配る新聞の1面を見ては思う私です。

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山本鼎の精神を引き継ごう(上田市・でー)

大正デモクラシーの伝統は今なお上田市民に受け継がれています

 

「上田市立神川小学校には、上田市ゆかりの芸術家の山本鼎(やまもとかなえ)を顕彰する『山本鼎先生の部屋』」『「自分の目で見て、感じとったものを描くことが大切』という『児童自由画教育』を提唱」

https://museum.umic.jp/kangawa/

 

上田市在住のでーちゃんからのメールです。

 

“まさに、小学校の時の、担任の先生が、今思えば、山本鼎の、精神で。葉っぱは、みどり、って決めてねーか?よーくみてみろや、いろんないろが入ってるよ、と。

 

それから、みんなは一人一人、見え方が違うだろ?皆、おなじに見えるはずはないぞ

感じ方はひとそれぞれだから、自分の目に見えた色でかけよー。って

 

間違いってのはないんだぞ。みんな、正しいの。って言われて、

子どもごころに目からウロコで

 

考えてみたら、

私も、教育実習中に、生徒たちにこの言葉を伝えていました!(笑)

周りや自分の子にも(笑)

感じた色で、描いてごらん、って。

 

生前、母がよく山本鼎、農民美術がいかにすごいか、よく語っていました。

ページの文章を読んでいて、何故か?????

涙が出てきました。不思議。

 

当時の子どもたちの素晴らしい絵をみていて、

!と、私の大好きな場所?景色の絵が数点!!

ビックリしました”

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ぱんだのかあちゃん(看護師)の生活綴方

一度しかない年長さんの行事

年長だけが出来る、そうめん流しの係が出来なかった双子

 

感染拡大防止のため、移ってはいけない姑に双子を預けて仕事に行くという矛盾

エッセンシャルワーカーや医療福祉関係で休めない職種の子は預かってくれるようになり、この半年 なんとかやってきました。

常に感染のリスクに晒されながら、そして、私達自身が感染させるかもしれないと怯えながら、必要な対策を話し合い、実践し、訪問先に伺う日々です。

必要な手袋やマスクといった防護用具がなかなか入手できないこともありました。

 

ピンチはチャンスとも言います。コロナ禍をきっかけに、様々な社会の歪みが浮き彫りとなり、是正するために、今までの慣習が見直されたりしています。

感染対策においても同様です。

何となくマスクして、何となく消毒してというより、しっかりマスクして買い物に行く、私が普段からやっていたことです。

マスクなんて効かない、というのは覆されつつあります。

園でもこの時期、鼻を垂らして咳をゴンゴンしている子は、滅多に見かけないです。

それが良いか悪いかは、わかりませんが、コロナと同時に去年のようなインフルエンザによる一家全滅は避けられるかもしれません。

私は医療福祉関係の仕事ですから、不要不急の外出自粛、大勢の集まりに出ない、県外へ行くときは申請するなど規則があります。

一方で世間は、経済を回さなければならないため、人の出入りはある程度緩和されてきました。

私達は旅行に出かけるのも我慢しています。

世間は、ゴートゥキャンペーン…わかります。観光、旅行、飲食業界は死活問題です。

医療福祉関係者への給付金が出ましたが、しっかりと課税されていました。

給付金なのに課税…なんだか悲しくなりました。

いま、自宅の新築のため動き出していますが、打ち合わせ中もマスク

買い物でもマスクにアクリル板

手袋したままの店員さん。むしろ不潔と思いつつも買い物

子どもを堂々と買い物に連れて行かれません。

人と話すときいつも薄い膜に隔てられている気分です。

ソーシャルディスタンスというものに隔てられていて、私は三密を防ぐために、月1回のママ友会も我慢しています。

世間は色々出かけられるのに、私は我慢の日々です。

この日々に慣れては来ましたが、時々無性にいらだつときがあります。

お金をいただけるのはありがたいのですが、何せ人との触れ合いが減ってしまったことが何より、私のメンタルを少しずつ削いでいっています。

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コロナ禍のなか、冊子づくりをすすめています その意義を世界と日本の事例から考える(コロナと暮らし実行委員会)

20日、コロナと暮らし実行委員会を行いました。

 

コロナ禍のなか、生活者として、自分自身の生活や、そのなかで見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを、事実に即して具体的に自分自身のことばで表現した文章を集め、冊子にする作業をすすめています。

 

冊子をつくる意義を世界と日本の事例から深めました。

 

チリのアルピジェラ。アップリケのタペストリーです。もとはチリ沿岸部イスラ・ネグラ地域の伝統手芸。1973年以降、ピノチェトによる新自由主義・軍事独裁下、政治弾圧で家族を失ったり、貧困に苦しむ女性たちがアルピジェラを用いて自分たちの日常生活を表現し、人権侵害に抵抗するネットワークを形作っていきました。

 

日本の「生活綴方」。生活者としての子どもや青年が、自分自身の生活や、そのなかで見たり、聞いたり、感じたり、考えたりしたことを、事実に即して具体的に自分自身のことばで文章に表現すること、またはそのようにして生み出された作品です。生活綴方運動は、〔1〕日本の風土から生まれた土着の教育思想、方法であり、〔2〕公権力の教育支配に対抗する下からの教育として、〔3〕子どもの実感や要求を出発点とし、生活者としての現実認識を育てようとする教育としてとらえることができます。日本近代教育史上、重要な意義をもつ運動で、学校の外での成人や青年の運動にまで発展しました。

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コロナ禍で奪った「教育を受ける権利」は重大な人権問題(養護学校教諭のTさん)

2月27日に安倍首相(当時)が突如表明した全国一斉休校の要請は、学校現場に大きな混乱を巻き起こしました。当時、私は小学部6学年を担任していました。卒業まで2週間余り。子どもたちと大切に過ごそうと考えていた日々が目の前から消え去り、大きなショックを受けました。

 

感染の拡大していない地域にまで一律に休校を要請することは科学的根拠に乏しく、また首相による要請に法的な強制力はありません。それでもほとんどの自治体が一斉休校の判断をしたのは、授業を続けて万が一感染者が出た場合の批判や責任問題に対する懸念があったのではないでしょうか。その一方で、憲法26条で保障されている「教育を受ける権利」を子どもたちから奪ったことに対する責任は誰も取りません。次第に、これは「子どもたちとの大切な時間が奪われた」という感情的な話だけではなく、重大な人権問題なのだということに気がつきました。

 

障がいのある子どもたちの中には、突然の休校によって生活リズムが崩れ、心身ともに不安定になったお子さんも少なくありませんでした。睡眠が不安定になり、パニックや自傷行為が出てきたなどの報告を各所から受けました。特別支援学校では、家庭の状況によっては「学校を居場所とする」ことも可能となっていましたので、毎日数名が登校してきました。その子たちには、なるべく普段通りの生活が送れるようにしたいと思い、たとえ1名のみの登校でもいつも通りに朝の会や帰りの会をしたり、通常登校のときと同じような日課を組んだりして対応しました。

 

臨時休校中も保護者の仕事の関係などで、放課後等デイサービスの事業所を利用するお子さんが多くいました。学校に比べて敷地も狭く「密」は避けられない状況であるにもかかわらず、福祉事業所では子どもを受け入れなければならないという方針に大きな違和感を覚えました。学校が責任を丸投げしているようで、申し訳なく苦しい思いでした。

 

6月以降、通常登校が始まり、学校に子どもたちの元気な声が戻ってきました。この間、ICT教育の必要性が声高に言われるようになっていましたが、今回の相次ぐ休校によってオンライン授業の必要性などがさらに強調されるようになりました。職員間でも、どのようなことができるか検討をしましたが、考えれば考えるほど実際の子どもたちの姿とのギャップが深まるばかりでした。学校という場所の価値を考えたとき、友だちや教師の存在は外せません。特に特別支援学校小学部の子どもたちにとって学校は、遊びや実際的な体験を通して人やものと触れ合ったり、人とかかわることの楽しさや心地よさを学んだりする大切な場です。オンラインや自宅での学習をどうするかだけでなく、どのようにすれば安心して子どもたちが登校できるかを考え、感染拡大防止の手だてを最大限施しながら、学校での教育の機会を保障していくことが重要だと感じています。

 

最後に、日本国憲法で「教育を受ける権利」が保障された後も、障害のある子どもたちは就学免除・猶予制度の下、学校に行きたくても行けない時期が続きました。「社会に役立ちそうな一部の者を除いて、障害児に投資する価値はない」とされるなか、当事者、保護者、教師をはじめとする多くの人たちの運動によって1979年にようやく養護学校の義務制が実現しました。学校に行けることになった子どもたちや家族の喜び、学校に通い始めたことによってぐんぐんと発達していく子どもたちの姿など、当時の記録をからは学校の価値とその重みが伝わってきます。「新しい生活様式」のもと様々な制約もありますが、学校現場に身を置くものとして、学校が子どもたちにとって希望の場であり続けるために努力を続けたいと思っています。

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この半年の学生生活は「つらい」 今の政治は学生や学問のことをとことん軽く見て貶めてる(長野県出身の西のほうの大学2年生さん)

大学に行って授業を受ける、友人や先生と行き会って話をする、

図書館で本を読む、学食で食事をする。

正直これが当たり前だと思っていました。そして続いていくものであるとも。

でもそれがこんなにあっさりとなくなるなんて今でも信じられません。

この半年を一言でいうと「つらい」が一番適当な言葉です。

ですが、その「つらさ」の原因は家にこもってひとり課題をこなすしかないこと以外にもあります。

今の政治が学生や学問のことをとことん軽く見て貶めていることです。

コロナ禍の影響を受けなかった学生はいないのに支援策に線引きをしたこと、某政党が私の専攻している分野の知識を誤用したこと…。

たくさんありすぎてキリがないですね。

 

なんで学生やってるだけでこんな思いをせにゃならんのだ、もとをただせば政府の失策と無策のせいじゃないか、科学を政治の道具にするな。

こんな思いをするのはもうたくさんです。根本から変えたいです。今すぐまともにするのは無理なのはわかっています。

でも次の世代までにはもう少しまともにできるはずだし、その次の世代までにはさらによくできるはずです。

なにもしないでいるのは嫌です。

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シンポジウム「コロナと暮らし」は延期とします

新型コロナウィルスの感染が、長野県でも再拡大しています。

 

9月5日(土)午後1時30分よりホクト文化ホール小ホールで予定していましたシンポジウム「コロナと暮らし」は、延期することとします。

 

なお、医療、教育、学費、営業、ジェンダーなどの角度から、コロナ禍で起こっている実態や意見を聞きながら、 私たちの社会・世界を見つめ、提言をまとめる作業は引き続きおこなっていきます。冊子をつくります。

 

 

不安をちゃんと見る

弱さに向き合う

強制ではなく連帯する

 

コロナで映し出された

わたしたちの今の問題を 

ひとつ、ひとつ

解決していけるように

 

コロナを考えることで

見えてくる世界を

ひとり、ひとり

考える糧にしてほしいな

 

新自由主義から転換し、国家がいがみあう不毛を乗り越え、助け合う未来に進むために舵をきろう

  

2020年8月8日 「コロナと暮らし」実行委員会(実行委員長 弁護士・岡田和枝) 

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休業補償を受けて、新型コロナを広げないためにパチンコ店を休業するというのが、憲法の要請する社会

※岡田和枝弁護士のコメントです

 

私たちの自由は、「公共の福祉」即ち、他の人の権利とぶつかるときは制限されます。

パチンコ営業は、経営者の営業の自由、利用者の幸福追求権、移動の自由など、憲法上の保障を受けています。

他方で、3密状態を作ることで、新型コロナのクラスター発生のリスクを高めるということは、現時点で科学的に明らかになっていることです。

そうすると、パチンコ店の営業は、特に持病を持った人や高齢者など他の人の命や健康を侵害する可能性があるため、「公共の福祉」により制限されます。

問題は、合法的に経営しているパチンコ店に休業補償を出さないことです。

憲法12条後段には「また、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれおを利用する責任を負う。」とあります。

休業補償を受けて、新型コロナを広げないためにパチンコ店を休業するというのが、憲法の要請する社会であると思います。

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台風19号、コロナ禍と学びの権利(長野市豊野出身の金沢大生、Sさんのメッセージ)

長野市豊野町生まれです。現在は金沢大学に通っています。今回、憲法かえるのやだネット長野さんが街頭活動を行うとのことで、メッセージを送らせていただきます。現在、私は全国的に広がっている学生支援を求める署名活動を金沢大学で行っています。また高等教育無償化プロジェクトFREEにも参加しており、そちらでも活動をしています。長野では、昨年の災害以降、ボランティア団体N-FiRSTに参加してボランティア活動に参加しています。

 

今回、僕は現行の憲法でも十分に保障されていない、平等な教育を受けるという権利について述べさせていただきます。そもそも日本国憲法第26条によって教育の権利は保障されています。また日本国憲法第14条よって平等権も保障されています。

 

しかし、現実では経済的理由によって大学に進学できない人や大学に進学しても経済的理由で退学をせざるをえない人がいます。毎年10,000人の学生が経済的な理由で大学を退学しています。最近では新型コロナウィルス感染症による学生生活への影響が様々なメディアで報道されています。例えば、アルバイト収入によって学費や生活費を賄っていた学生が、このコロナ騒ぎによってアルバイトがなくなり、生活ができなくなり、大学を辞めざるを得ないなどといったことです。4月に発表されたFREEの調査では、5人に1人の学生が大学を辞めることを検討していると回答しました。このような現状が生まれているなかで、果たして教育の機会均等が保障されていると言えるのでしょうか?

 

そもそもこの問題は今に始まったことではなく、従来からあった問題です。それがこの全国的な疫病災害である新型コロナウィルス感染症の感染拡大によって顕在化したに過ぎないのです。これまでの制度においても、災害によって学びをあきらめざるを得ないと言う学生が生まれる可能性が十分にありました。従来の支援制度では、家屋災害に限定した支援のみが行われており、今回のように間接的な経済被害に関しては支援されていませんでした。つまり災害によって学びの権利が簡単に失われてしまう状況が今までもあったのです。

 

このように簡単に学ぶ権利が失われてしまうのは教育が商品であるからに他なりません。多くの人々にとって、もちろん僕自身にとっても、小学生の頃から教育に関する費用を支払うことで教育に対する消費者マインドが身に付いてしまっていると考えています。お金を払った対価としての教育、果たしてそれは権利であると言えるのでしょうか?お金を払えなければ教育を受けられない、これはお金を払えないから車を買えないといったような、購買行動となんら変わりありません。このことは、大学などの高等教育機関に限らず、高校や中学校、小学校にも言えることです。一例として修学旅行があります。修学旅行は学習が目的とされている一方で、それにかかる費用は各家庭が負担しています。特に小・中学校は義務教育過程であり、教育費はかからないとされているのに、修学旅行のためにお金を支払わなければならないというのは、果たして憲法が規定する義務教育の無償を達成していると言えるのでしょうか。

 

こういったことを主張すると「教育費は受益者が負担する」と指摘されます。このような指摘をしてくる方は、大抵、教育の受益者は学習者本人であると捉えています。しかし教育の受益者とは果たして学習者本人だけなのでしょうか?学習指導要領に記載されている中央教育審議会答申では、「より良い学校教育を通じてより良い社会を創る」とあります。すなわち、教育の受益者とは学習者本人だけではなく、社会も含まれます。受益者負担の考え方に基づくのであれば、小・中学校の修学旅行にかかる費用やその他給食費など費用、また進学の際の受験料なども社会が負担するべきなのではないでしょうか?受験に限らず、高校・高等教育機関で必要な授業料についても社会が負担するべきではないのでしょうか?

 

そもそも日本は災害大国です。いつ大きな災害に見舞われるか分かりません。災害によって学びの権利が左右されないようにするためには、教育費は社会が、国が負担する必要があります。日本の教育費のうち、家庭負担が占める割合は6割を超えています。これはOECD諸国の中でもトップレベルで高い比です。日本のように災害が多発する国において、教育費の家庭負担が多いと学びが失われてしまう可能性も高いといえます。災害に備えるという意味においても、教育費の家庭負担をなくし、無償にする事は必要な政策だと僕は考えます。

 

このような不十分な環境の中で、日本国憲法を改憲するということに僕は強く反対します。現行の憲法下において規定されている権利でさえも保障されていない中で、憲法を変える事はとてもリスキーであり、それこそ萩生田文科大臣が署名活動を行なっている学生に対して言い放った言葉、「順番が違う」と言えます。このような状況下で憲法を変えようと言っている方には「目を覚ましていただいて」、まずは現状抱えている問題を十分にクリアしていくことに集中して欲しいです。

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全国一斉休校、安倍首相の鶴の一声で子どもの普通教育を受ける権利が制限された

3月19日、長野市トイーゴ前で読み上げました
3月19日、長野市トイーゴ前で読み上げました

※岡田和枝弁護士からのメールです

 

マスコミ報道は、共働きの家などで、子どもをみれなくなることの不都合さを取り上げています。

この不都合さがあることは、私は身をもって実感しています。

しかし、そもそも、学校は、共働きの家のために子どもの面倒をみるところではありません。

子どもの普通教育を受ける権利を保障する場です。

 

今回、安倍首相の鶴の一声で、子どもの普通教育を受ける権利は制限されました。

憲法上の権利が「国民の命を守るため」という理由で、簡単に制限されることはあまりに恐ろしいことだと私は思います。

緊急事態条項が憲法に書き加えられたら、こういう世の中になるんだなと、私は背筋が凍る思いです。

 

国民が自分の権利を制限されながら、それを簡単に許してしまえば、そのうち、次のようなことも起こりえます。

「国民の命を守るため集会は開かないで下さい。」「国民の命を守るためデモは行わないでください。」

「国民の命を守るため宗教活動は自制してください。」「国民の命を守るため学会は開かないでください。」

 

「国民の命を守ることに資する研究以外はしないでください。」

 

集会やデモを自制するように安倍さんが要請することだって、今回と同じ理屈で可能なのです。

あくまで要請です、自治体が自主的に判断して下さいと良い通、一斉に自治体が公民館の使用許可を取り消したらどうなるでしょうか。

私たちは、もっと権利侵害に対し、敏感にならなければいけないと思います。

 

緊急事態条項が憲法上に書き加えられ、緊急事態が宣言されると、国民の人権は停止できます。

そうなれば、コロナウィルスや地震などを理由に、「国民の命を守るために集会は禁止」「国民の命を守るために学校は休校」と命令することも可能になるのです。

私は、今回の休校要請は、人権がいとも簡単に制限された前例を作ってしまったと思います。決して許してはいけないことです。

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公立公的病院再編・統合問題について(長野県社会保障推進協議会事務局・原さん)

昨年、厚生労働省が、長野県下の15の公立・公的病院を名指しし、病院のベットを削減し統合をするよう求める問題でお訴えします。

 

私たちはこの問題で「地域医療を守る連絡会」を結成し、名指しされた病院との懇談を行ってきました。懇談した病院では、再編・統合の対象となったことに、院長をはじめ管理者から「寝耳に水だ、心外で納得できない、憤っている」という不満が表明されています。

東御市民病院からは、「まるでこの地域に病院がなくてもいいような印象を与えられた」と強い不満も出されました。

 

今回の名指し厚労省が基準にしたのは「脳卒中や救急などの診療実績が多いか」「20分以内の距離に競合する病院があるか」の2点です。しかし、厚労省の分析したデータは古く、実際の実績と合わないうえに、長野県の特徴である雪道や山道などによる地域の特徴は無視されています。

飯山赤十字病院では、「競合する病院」として中野市の北信総合病院が挙げられていますが、飯山日赤の病院長は「隣の北信総合病院までは夏でも車で20分ではいけない。ましてや冬に積雪があれば救急車でも1時間はかかる」と、あまりにも地域の実情を踏まえていない基準に「納得できない」と話しています。

 

私たちが懇談してきた北信や中信、上小、佐久、下伊那などの病院ではどこでも、近隣の病院とは競合ではなく日常的に連携し合いながら、地域で医療が完結できるよう努力が行われています。また、高齢化に対応したベットの確保や、介護や在宅医療にも力を入れているのが共通した特徴です。国は、まさにこの点こそ評価するべきではないでしょうか。新型肺炎への対策を考えても、公立・公的病院の果たす役割は非常に大きく、指定感染症のベットを持つ病院の8割を公的病院が持っています。病院を守ることは、新型肺炎から住民の命を守るうえでも重要なことです。

こうした病院に「再編統合」を押しつけ、ベットを減らし、病院が減らされれば、地域の医療も住民のいのちも守れなくなるのは明らかではないでしょうか。いのちを脅かすような公立・公的病院の再編統合は白紙撤回するべきです。

今、病院を守るために、信濃町や小海町の議会などで「病院の存続と充実を求める」国や県への意見書が全会一致で可決され、飯山では自治体を挙げた署名運動も進められています。

 

私たちは、5月10日にこの問題を県民に可視化するための「県民シンポジウム」をJAアクティーホールで開催します。多くのみなさんの参加をお願いします。

 

住み慣れた地域で安心して暮らし続けるために、住民の皆さんとともに公立・公的病院を守る運動を進めていきましょう。公立・公的病院を守るための運動に協力をよろしくお願いします。

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