中国残留孤児の父・山本慈昭さん。あの戦争の時代に、日本がなにをしたかを知り行動したことで、多くの人々の救出に成果をあげた

映画「望郷の鐘」原作の和田登さんは、本のあとがきのなかでこう書いています。「日本人として生きるとき、あの戦争の時代に、日本は大陸を支配し、なにをしたかを知ったうえで、新しい中国の人びととの交流や友情を深めていく必要があります」。

 

アジア・太平洋戦争の敗戦の混乱のなかで、中国大陸には、親子離れ離れ、きょうだい同士が離れ離れになって、たくさんの人びとが孤児となってとり残されました。

そうした孤児たちを探しだす運動に命をかけたのが、「望郷の鐘」の主人公で「中国残留孤児の父」といわれた山本慈昭さんです。

 

たくさんの孤児をつくった満州開拓移民政策は、「王道楽土」「大東亜共栄圏」の美名のもとに、中国人民を苦しめ、また満州に渡った日本人をも犠牲にしました。中国での苦難の逃避行では、日本人によって苦しめられたにもかかわらず、中国の現地住民の中には、日本人に救済の手を差し伸べてくれる人がたくさんいました。  

シベリア抑留のあと日本に帰り、「あの戦争はなんであったのか」と悶々とする日々を送る慈昭さんは、天竜川の平岡ダム工事で強制連行され犠牲になった中国人の存在を知ります。

 

当時、国交が断絶していた日本と中国でしたが、慈昭さんは強制連行で犠牲になった中国人の遺骨収集を真っ先にし中国に届ける活動に取り組みました。慈昭さんのこうした行動が、手がかりのなかった孤児たちの救出に道をひらき、やがては日本政府と中国政府をつきうごかしていきます。

 

「国家関係はいかに険悪でも、苦難を体験した国民同士は分かり合える」と和田登さんはいいます。そして「いま大事なことは、国として反省すべき内容は素直に認めることではないか。真の国益・平和はそこから生まれる」とも。