猫がくれたメッセージ、「知らない」ということが差別につながる。私たちは「だれの子どももころさせない」(アベ)
私がこれまで、安保関連法案に賛成する方のお話しを聞く中で、気になっていたことがあります。
それは、差別する心を感じる、ということです。
どこかの国が攻めてくるという話もありますが …
戦争をするということは、人を人として扱わないということです。
日本国憲法で謳っているいるように、人を個人として尊重するならば、戦争というものは起こせないと思います。
だから、戦争を肯定する時点で、もうそれは差別なんだと思います。
そんなことに思い当たってから、私は、自分の中にも、差別する心が無いように、と思ってきました(元々、差別は良くないと思ってはいましたが)。
猫の話をします。
安保関連法案が通りそう、ということでバタバタしていた8月、うちに一匹の猫がやってきました。野良猫です。野良なんですが、妙に人懐こくて、三日三晩、家の前でにゃーにゃー鳴き続けました。
私はそれまで猫を飼ったことが無かったのですが、うちに居たいのかな、と思い、飼うことにしました。
お医者さんに連れていき、病気を持っていないか診てもらい、飼いはじめました。
それからほどなくして、私のお腹に赤ちゃんがいることがわかりました。
友人と話しているときに、友人が言いました。
「トキソプラズマって危ないよね。猫が媒介するんだよね。」
私はその時、トキソプラズマについてはよく知らず(前に一度調べたけど、関係ないやと思って忘れていました)、「猫」「胎児に影響がある」「障害が残る」そういう不安だけが煽られて、私は猫を避けるようになりました。
猫が寄ってこないように追い払うようになりました。
だけど、ずっと悶々としていました。
不安なんだけれど、本当はどういうものなのか。
日常の忙しさを理由に後回しにしていたけど、調べはじめました。
そうしたら、確かに、猫が媒介するけれど、それは、猫自身が感染した後10日間くらいの便が危ないのだということでした。
便にさえ気をつければ大丈夫なのです。
(注:トキソプラズマの感染源は、猫の便以外にも、生肉などがあります)
それを知ったとき、私は、「あぁ、これが差別なんだ」と思いました。
「知らない」ということが、何よりも、差別につながります。
知らなくて、不安だけが煽られて。
自分が差別しているとは思っていなくても、それが差別なんです。
私は、これは、猫がくれたメッセージだと思いました。
いろんな人が、「あの国は危ないよ」「あんなこともしてるよ」と言います。それで、不安が煽られて。。でも、本当に、知っているんでしょうか。知ろうとしているんでしょうか。その国の人たちと、仲良くしようとしてるんでしょうか。
そんな努力もしないままに、不安だけを募らせる。知らないからこそ、こわくなる。
私は、この「不安」をかき消すには、「知る」しかないと思いました。知らない人に伝えていくしかないんだと思いました。
そして、私の中に潜んでいる差別の心というのも認めなきゃいけないと思いました。
知らずにこわがっちゃいけないというのは、原発の事故の時に、十分わかっていたはずなのに。
それを思うと、私は自分で自分が情けなくなります。
私は愚かだな、自分が知らなくて不安なものは、知ろうとしなきゃいけないんだな、と思いました。
だから、今後のママたちの活動としても、勉強して、これは不安のモトにはならないんだよ、ということを、いろんな人に伝えていくのが大事だと感じています。
知ろうとし続けること。自分のこころを覗いてみること。
根本にあるのは、「だれの子どももころさせない」ことです。
※猫は今もウチにいます。(便には気をつけています)
子を想うと母というのは自然と涙が出る。その感情に名前はありません(F)
私が安保法制に反対する一番きっかけになったものがあります。それは自衛隊に学生時代にお世話になった人がいることです。
自衛隊の在り方が変わってしまうというとても大きな問題なのに、法案から法制へ強行に、そしてまたたくまに採決が行われ、可決されました。
そのやり方にも、説明や議論の不十分さにもおかしいと思い、いてもたってもいられず子どもを連れて二人で新幹線にとび乗り、国会前へいきました。
もちろんデモだけではなく勉強会へも参加してきました。
あれから4ヶ月。各地でデモが起こり、人が集まり、その中で、この暴走する政府をなんとかしようと選挙で民意を押し上げ民主主義を取り戻そうとしています。
その大切なことを推し進めていく中で、私は絶対に忘れたくない言葉があります。
それは、命 という言葉です。
私は四年間で三人の子どもを産みました。毎日気が狂いそうになりながら子育てをし、それは今現在も続いています。不慮の事故にあわないように、風邪をこじらせて重症化しないように。外へ出るときは一人をおぶり、二人と手をつなぎ目を配り、声をかけやってきました。それでも、一瞬の隙でこの子は歩行器に乗ったまま階段の上から下まで落ちました。額についた跡は一生消えないでしょう。
この子が成人しても、いつか母親になっても、私はこの傷をみるたびに自分を責め、その瞬間の何もできなかった自分の不甲斐なさを背負って生きていくのです。それが母親なのです。
小さな小さな体の、しかしその命の重さは計り知れなく、それを守らなければならないということの重圧にまた押し潰されそうになりながら生きています。
だからこそ、だからこそ、一人の命 なのです。
たった一人の自衛隊の知り合いのために、と思うかたがいるかもしれません。
しかしその一人の命を産み出し育ててきた母親が必ずいるのです。
その母親を想うから、私は反対の声をあげているのです。命の議論を全くしなかった安倍政治に一番怒りを覚えています。
そして、今この中で、立憲主義、民主主義、選挙、人権。あらゆる言葉がもちろん大切です。しかしその言葉は全て一人一人の命を輝かせるためのものです。
ママの会は感情で、という人がいます。けれど、子を想うと母というのは自然と涙が出ます。
でも、その感情に名前はありません。
嬉しいとか、悲しいとか、1つの言葉でくくれるものではないんです。
けれど、その涙という全ての母親に共通のものが、県内の、全国の、そして全世界の母親をつないでいます。
ママの会の一番の軸はそこにある。
だからブレないんです。
いつも、となりにいる我が子を見つめるだけで私たちは原点へ立ち返ることができる。
その、原点とは、命の重さを何とも思わない、『安保法制可決までの一連の流れの全てを白紙に戻す』ということが、最大の目指すべきものだ、ということです。
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