『コロナ禍の中で演劇をやっていて感じた寂しさと喪失感』(松本市劇団であい舎団員S・K)

私は普段、松本市の芳川(よしかわ)公民館を拠点とし、年に一度のペースで約30年間公演を打ち続ける劇団であい舎に所属し、芝居をしています。劇団であい舎では『基盤は地方(ローカル)に、視野は世界(グローバル)に』を銘に嘘のない芝居づくりを目指し、昭和史などの勉強もしながら、主に社会派の作品を上演し続けてきました。

 

コロナウイルスが流行り出して、ウイルスの危険性が騒がれ始めたのが丁度今年の劇団の活動(公演を含めて)をどうしていくかを、劇団員同士で話し合っていた時でした。コロナの影響を危惧し公演は中止に。

 

毎年公演の期間中は、地元からはもちろん、県外からも多くの方達が公演に足を運んでくれて、会場の公民館は、いつもの公民館と違う少し特別な雰囲気の場所に変わります。

 

「やだ~!ちょっと元気だった?」

 

「今年もであい舎の公演を見に来られて良かったわね。」

 

「また一年元気に生きて、来年もここに集まりましょうね。」

 

お客同士の間でそんな会話が飛び交い、再会を喜びつつ、つらかった事と嬉しかった事、それぞれの一年分の出来事をお互いに報告し合う様な、ただ観劇をしに来るだけが目的じゃない、充実した交流ができる場に、公民館の一室が変わるのです。芝居を見て深く感動して、誰かと思いっきり話して、会場に来た時よりも元気な表情で帰っていく人達の姿を見るのが私は好きで、そんな姿を見ていると「今年も公演を頑張って公演をやって良かった。」と感じ、こちらも元気を貰えていました。コロナの事があったから仕方なかったとはいえ、今年はそんな大切な場所を作りだす事が出来なかった事をとても残念に、そして切なく感じます。

 

そんな状況の中ではありましたが、公演は中止になったものの、であい舎では回数を必要最低限に減らし、様子を見ながら劇団の活動を続けることに。しかし毎日の様にコロナウイルスのニュースが流れ、嫌でもコロナウイルスの情報が入ってくる日々が続くうちに、私の胸の内には、コロナウイルスや人と接触する事への恐怖心や猜疑心が生まれてきていて、であい舎のメンバーと、コロナウイルスが騒がれ始める前の様な距離感で交流をしたり会話をする事が出来なくなっていました。厳しい稽古を何度も一緒に乗り越えながら幾つもの世界を創りあげ、時間をかけて親しくなった相手を、疑いたくないのに疑ってしまう。怖がってしまう。それは劇団のメンバーだけではなく、劇団以外の他の人達に対しても同じでした。今は「コロナウイルスと共生していくしかないんだな。」という思いが私の中にあるので、必要以上にウイルスや人との接触を怖がらなくなったけど、あの時はその事が一番辛かったです。あの状況の中で私は簡単に人への信頼感を失いそうになったし、そんな自分の酷さを自覚し、また楽しく人と会える様になるまでに、けっこうな時間がかかってしまいました。今回気がついたそんな自分の一面にショックを受けたけど、その一面をしっかりと自覚して、今後は気をつていきたいと思います。そのうちに松本市内の公民館が休館となり、であい舎の活動も数ヵ月間止まる事になりました。現在は少しずつ、活動を再開させています。

 

たとえコロナウイルスが落ち着いたとしても、これからはきっと以前と同じ様なやり方や、距離感で稽古をしたり公演を行うことが出来ない。今までお客や劇団員同士で時間をかけて積み上げてきた、やり方や馴染みのある距離感を変えたり捨てなければ、芝居を続けられない。目まぐるしいスピードで変化していく演劇界や世の中の中で、正直、取り残されてしまった様な感覚と寂しさ、喪失感が私の中にあります。胸の内の情熱はそのままなのに、この流れやスピードに乗っていけない人達はどうなるのだろう。

 

このコロナ禍の中でリモート演劇等が生まれ、現在もフェイスシールドの様なものを利用したり、こまめな換気や人同士の間隔や距離に気をつけるなど、様々に対策や工夫が重ねながら演劇の稽古や公演が行われています。今回のコロナの様な事や戦争、他にも大きな事件がおこった時には一発で「演劇なんて必要ない!」「無くなっても誰も困りはしない!」と切り捨てられるか、権力者の道具に使われる危うさを演劇は抱えていると思いますが、「これからどうしていけば良いのか。」「今、自分達に出来ることは何か」を皆それぞれ考え、この状況の中で頑張っています。コロナ禍の中で演劇をやっていて感じた寂しさや喪失感から逃れる事は出来ないけど、私も自分に出来る精一杯の事や、やってみたい事をしっかりと考え行動にうつして、少しずつでも進みたいです。

 

少し話が逸れますが、コロナ禍の中でハッキリと見えてきた様々な課題はもちろん、戦争や憲法のこと、過去の過ちがなかなか活かされない原発や、環境破壊がジワジワと進行中の地球のこと、人知れず切り捨てられる人達がいて、亡くなる人が後を絶たない社会や世界を見ていると、この世界に対して終末を感じるし「経済成長」という言葉に虚しさを感じます。命の価値が経済成長よりも軽い今の仕組みの中での成長は、もう限界地点に来ていると個人的には感じています。今の様な社会を作ってきてしまった一人の大人として感じている、若者や子供達に対しての責任感はとても重たいものだけど、一日一日を一生懸命に生きている子供達や若者を見ていると、自分と他人の命の両方が大切なものだと実感を持てる様な、生きてて良かったと思える様な社会を遺してあげたいと、切実に感じるのです。