危機の中で(信州の非正規工場労働者、そして信州の政治的文筆家)

関東の地味な大学の片隅で、ボンクラ学生として政治学を学んでいた頃の私に、とある教授が話してくれた事がある。「政治学は今の社会にさして必要とされていないのだ」と。「行政学等の分野は少し事情が違うが、理想の政治社会の形を追い求める政治学は、現実の政治や社会からは寧ろ敬遠されているのだ」と。「だから、社会が君達を必要とする事は、もしかしたら無いのかも知れない」。そう語る教授はどこか寂しげだった。

 …政治は、政治学は何と無力なのだろう?大学を去り、郷里信州の社会に身を投じてから六年半。その間、幾度となくそう考えた。シビアな労働・生活の現状に直面する度に。テレビや新聞が海外の紛争・災害・事件を伝える瞬間も。大切な家族・仲間の苦境を前に、自分の無力さを感じたあの時も。自分達の共同体・社会が不穏な方向に進んで行くのを、指を咥えて見ている事しか出来ないこの状況においても。

 

そして今、私は……私達は感染症拡大に端を発する社会的危機の直中にいる。国内外で多くの人間が感染症に感染し苦しんでいる。経済は危機に動揺し、これまでどうにか誤魔化してきた社会問題の数々を露呈させている。特に多くの困難に晒されているのが中小事業体であり、一人一人が人生を生きている無数の勤労者である。

失業や生活苦に晒される人々に対し、政治体による救済は後手に廻っている。政治体は既に人間のアソシエーションとしての本質・使命を失いかけているのだ。肥大化・複雑化したシステムによる「管理・統制」と化した現代の政治は、一人一人の成員の声に耳を傾け、協同の力でその苦境・問題を解消する事には極めて消極的だ。今、政治体が優先的に守ろうとしているのは利権や不文律によって固められた経済社会の構造・メカニズム・体制であって、そこに生きる一人一人の人間ではないのだ。

 

無力と言えば、大学を去ってから殆どワーキングプアとして生活して来てしまった私も偉そうな事は言えない。今の私は休業の増加によって減額された賃金で生活を成り立たせようと四苦八苦していて、他者の苦境に寄り添う余力も失いかけている。そんな自分に気付く度に、私は情けなくも思うし、酷く寂しい気にもなる。四年間政治学を学び、郷里の社会を知ろうと労働の現場に身を投じたにも関わらず、自分は何と無力なのか。私の政治学は何と無力なのだ、と…。

 

しかし、私には忘れられない記憶がある。それは家族と過ごした幸福な時間であったり、学生時代の仲間との他愛のない論議であったり、仕事終わりに雑談を楽しんだ師匠や同僚達との思い出であったり。そして、政治学は今の社会に必要とされていないと語った教授が、その後に続けた言葉がある。「それでも、政治学は自由な学問なんだよ。自分達が生きる政治社会の形について、僕達はどこまでも自由に創造して行く事が出来るのだ。だから、その自由な学問に触れられた事を誇りにして欲しい」と。

 

 

その記憶があるからこそ、私は未だ夢を見続けている。人間の創造的・討議的な活動としての政治の持つ価値を信じている。政治に向き合う市民の思索と行動が、社会を震わせ、人々の自由で水平な連帯を作り出せると信じている。私達の政治共同体・憲章・法制度には人間の苦境を救済する力があると信じているし、その機能を引き出せるのは「特定の人々や機関による、統治・管理としての政治運用」ではなく、「広範な市民による、自治・討議としての政治的活動」なのだと、信じて止まない。故に、私は自らの思索を文章として紡ぎ、社会にそれを投ずる。仮令、この感染症危機の渦中にいようとも。