コロナ禍で見えたもの

この4ヶ月のことを、世界的にも日本国内としても自分自身の人生の1ページとしてもずっと残っていくものとして、改めて振り返り、第二波についても併せて考えたいと思います。

 

私がコロナ禍で一番に感じたことは

「指示待ちの日本人」です。

2月以降関東を中心にコロナ感染者が増えていく中で、私の身近な人間で「早く緊急事態宣言を」という声が増えてきました。

全国の学校が、首相や文科大臣のツルの一声で一斉休校になったことはかなり問題でしたが、日本人のコロナ感染禍拡大を懸念する多くの人が、非常事態宣言を待っていました。つまり、この国は、学校の校則のような「決まり」というものが「先生みたいな存在の人から」発信されないと自ら行動が自粛できない、考えることができないのではないか。これは私達がずっと学校でそうしてきた延長にある気がするのです。

 

もちろん、もっともひどかったのは、自粛を要請しながらも補償をセットにしなかった国の対応です。個人の店などは補償がなければ閉めるに閉められない。経営をしていない人間でも思いを馳せることができるのに、補償がなく開けている店を叩く日本人。叩くのは補償を出さない政府へではないでしょうか。

自警団がはびこり、県外ナンバーの車に張り紙をしたり、感染者への嫌がらせ、個人情報をSNSで流すなど向ける矛先が全く間違っています。

検査や医療体制を拡大しない政府の方針と、感染者への差別的な視線が合わさり、感染者が感染していることを隠したり、感染源を特定できなけれぱ第二波が表立った数値にならず爆発的に広がることも懸念されます。

 

今は感染しないために、暑い日中を、30度を超えないとクーラーを付けてもらえない教室の中でマスクをした子どもたちが生活しています。

無言で食べる給食、校門でマスクをしているか見張る教員、全員外を向いて歌う音楽の授業、学校によっても対応は様々ですが、厳しいところでは子どもが気持ちの不調を訴え始めています。休校中は学習が家庭へ丸投げされ、親が見れるか見れないかにより休校明けの進行にも大きく影響が出ています。元々限界を超えていた学習指導要領を休校明けからも何とか全てこなさなくてはならず教師達は学校へようやく来れた楽しみを子どもたちに存分に味合わせる余裕もなく日々の授業やテストに追われています。

 

私達大人も子どももはコロナによって、何を失っているのか。どんなことを判断基準にしながら生活をしていけばいいのか。

まず、生活の中の権利が何なのか知らずそれ考えることはできるのでしょうか。

日本という国はずっと、権利を教えない国です。コロナ以前でさえ本来渡航の自由という権利があることを知った上で生活していた大人はどのくらいいるでしょうか。

与えられた権利が制限されている状況に感染を恐れ、むしろ安心してしまう。

自由がなくなることより感染しないことを優先し続けたら、第2波やこの先また新種のウィルスが次々にでてきたら、日本人が自ら持っている権利をさらに捨てることにならないか、自分を含め心配です。

 

今回の国の多くの対応について、怒っているのは大人だけではありません。

小学生でさえ、アベノマスクに怒っています。

小学生でさえ、どんな補償が必要か考えています。

小学生に怒られる、笑われる国のトップを作った私達大人が、小学生に怒られている、笑われているということなんです。

 

検察長の定年延期問題では国民が声を上げたことにより議論が途絶えました。

有名な芸能人が発信したことも大きな要因になったかもしれません。しかしこの先も、芸能人や有名人が発信すればいいということではありません。

元々、おかしいことをおかしい、と声を上げていた人はたくさんいます。

声を上げる自由を、権利を自覚した大人があらゆる手段を使って抗議や疑問を投げかける土壌があったからこそ、今回の大きなうねりにも繋がったと感じます。そしてそこから新たに声を上げられた人たちが合わさりました。

少しずつだけど、数年前から考えたら変わってきていることがあると実感できています。

もう、子どもに笑われる政権を選んでしまう大人から卒業しませんか。