松代大本営地下壕と説明板(案内板)の問題について

 松代大本営は、アジア・太平洋戦争末期の1944年夏に、「本土決戦」を叫ぶ旧日本軍が最後の拠点として、東京から現・長野市松代町に、大本営、政府各省等を極秘のうちに移転することが計画され、建設が行われた地下軍事施設群です。

 松代は海岸線から遠く、岩盤が堅いなどの理由で選ばれたとされています。象山、舞鶴山、皆神山一帯に独立した地下壕が掘られ、象山(イ地区)には政府、日本放送協会、中央電話局を、舞鶴山(ロ地区)には天皇御座所、大本営、宮内省関係を、皆神山(ハ地区)には食料庫を予定。壕の総延長は10キロを越え、終戦時には80%以上ができていました。

 工事は鹿島組と西松組が請け負い、主に朝鮮人労働者が従事。その数は強制連行と自主渡航による7千人前後と推定されていますが、工事犠牲者の数や実態は明らかになっていません。日本人も国家総動員法に基づき勤労動員されました。学徒勤労動員もありました。

 

児童文学作家の和田登さんは、長野市民新聞2014年8月26日付で次のように書きました。

“この工事の本質は、その工事主任であった吉田栄一大尉が憲兵の一員に告げた言葉「労務者は機械だ。あなたがたは人間だ。人間は口をきく。だから話せない」と、憲兵にさえ何の工事か明かさなかった言い方に表れている。人権を無視した労働だった”

“朝鮮本土で日本軍の収奪にあい、やむなく日本に渡航し、ここで働かざるを得なくなった人々を自主渡航組とよぶが、いったんこの工事に組み込まれると『連行組』同様、生きるか死ぬかの強制労働だった…ここに到着した形が強制的か自主かにとらわれると本質を見失う” 

長野市が立てたこの案内板には「当時の関係資料が残されていない」とあります。「残されていない」はどこか他人事ですが、これは当時の軍部などの指令により、戦争に関わる資料が証拠隠滅で焼却された、というのが実態。長野市も焼却の当事者です

見学後の話し合い。①工事に動員された朝鮮の人々は、すべてが強制連行ではないが、いったんこの工事に組み込まれると、生きるか死ぬかの強制労働、②沖縄戦は工事の時間稼ぎ、③軍部の指令で戦争に関わる資料は証拠隠滅、関係資料が残されていない(今の公文書の問題にもつながる)。

 

中学2年の男子が「当時の日本はなんて無謀なことを考えていたんだろう」。第二次世界大戦の末期、軍部が本土決戦の最後の拠点として、極秘のうちに、皇居、大本営、政府各省をこの地に移すという計画のもとに建設されたもので、終戦時には8割が完成していました

 

日本が戦う姿勢を見せつけることで、もし戦争に負けても、せめて条件をつけて負けたい。その条件とは、「元首」としての天皇制を守ることにあったと言われています。そのもとでの朝鮮人の強制労働、地元住民の強制疎開、時間稼ぎの沖縄戦でした。 

説明板(案内板)の問題について

長野市が「松代大本営地下壕」入り口に設置した説明看板の住民及び朝鮮人労働者が工事にかかわった部分中、「強制的に」の表記をテープで覆っていることが、2014年8月8日の信濃毎日新聞の報道により問題になりました。市側は文字を覆った理由として「強制的」を否定する投書やメールが複数あったからだとしました。

説明板の現状復帰と史実に基づく検証を求めて、1200人を超える署名が集まりました。署名にご協力いただいたみなさん、応援いただいたみなさん、ありがとうございました。

10月8日、長野市から松代大本営説明板とパンフレットの修正文が発表されました。

私たちは案内板やパンフレットについては、松代大本営の工事において、住民及び朝鮮の人々の労働の動員に関わる、削除された「強制的に」の文言の原状復帰をもとめると同時に、あらためて見直すということであれば、長野市誌などの史実に基づく検証を求めてきました。

この要望から見れば、市の発表した修正文は不十分なものと言わざるをえません。一方で「強制的に」の文言が復活したことは、長年の研究の積み重ねを否定できなかったということです。また、「平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡」という文言が新たに加わりましたが、これは多くのみなさんから署名などに寄せられた声を届けるべく、私たちも市への申し入れで確認してきたことで、声をあげることの大切さを実感します。

修正文について私たちが感じた問題点を述べます。強制的な工事への動員や、パンフレットの方では工事の犠牲者についてふれていますが、これらの歴史的事実に対して「と言われている」という断定を避けた表現は、歴史に向き合う真摯さに欠けています。

「さまざまな見解がある」というのも、長野市誌にしめされた市の見解と矛盾しています。

また「当時の関係資料が残されていない」と他人事のように書いていますが、終戦時、軍・政府の指令で、全国各地の関係資料がすべて燃やされ、証拠隠滅がはかられた歴史があります。現在、問題になっている秘密保護法との関係でも見過ごすことはできません。阿智村では、戦争動員のポスターを当時の村長が守りぬき、現在貴重な資料として保存されていますが、こうした姿勢を見習うべきです。

二度と戦争を繰り返さないために、私たちは戦争の被害の歴史も加害の歴史も、ともに忘れてはいけない、知っていかなければならないと思います。

 

2014年10月8日 秘密保護法やだネット長野事務局