私はこの何年か、憲法のことや政治のこと、教育や学校のことを考え続けてきました。
そしてそれらが一本につながったとき、自分が受けてきた教育、今の教育、これから目指されようとしている教育に絶望しました。
良い先生には出会いました。それは嘘ではありません。
でも、正しい教育を受けてきたでしょうか。
私たちはいつも、みんなのことを考えて行動することが大事でした。 自分勝手は良くないことで、色んな感情を我慢してでも一緒にやっていける協調性が評価の対象でした。
教室ではクラスのルールを作れるのに、「学校のルール」となると途端に大きな壁に阻まれ、なんとなく「小さなところではできるかもしれないけれど、大きなところではできないんだな」と素直に理解していってはいないでしょうか。
子どもたちが最後に出ていく「大きなところ」は社会なのに既に分かってしまっているのです。「変えることはできない」と。
私たちは決まっているルールでもそれが本当に必要か考える場所や根本から変えることをしてきていません。変だな、と思っても何が変なのかも分からなくて声をあげられなかったりします。
例えば今、教育への国家権力の介入が大きく取り上げられています。前文科省事務次官の前川喜平さんが行った学校での講演について文科省がその内容の報告を学校へ求めたものです。
しかし2006年の教育基本法の改定ですでに「教育への国家権力からの介入」は可能になってしまっているのです。今までも学校や教員への介入、圧力はたくさん行われてきています。教科書もそうです。
それは、改定で教育へはどんな不当な介入も許されないとする文言を変えてしまったからです。しかし教育への権力からの介入は「当たり前」ではいけないのです。今の問題をおかしいと感じるのなら根本まで変えていかなければいけないということを知ってください。
私はこの歳で多くの人に出会い、たくさんの機会の中で一番大事な視点は何なのかを知りました。そこに対して考えると、間違っているとかおかしいと分かる軸になるものです。
なぜ教育に政治が介入してはいけないのか。それは憲法から見て間違っているからなのです。
権力を縛り堅い檻となるもの。そして力を持たない幼き者、弱き者には寄り添い、大丈夫私があなたを守っているのだから良心に従って良いのだと背中を押してくれるもの。それが「憲法」です。
権力が間違った力を持ってしまうことはいつの時代にも起こります。 過去にも。そして今現在も。
檻である憲法さえも壊されることが起きています。けれど私たち大人はそれを黙って受け入れてしまいますか? 変えられない学校のルールのように、従っていれば優秀な人間ですか? それが自分の命、大切の人の命、子どもの命、これからの命に関わることでも、ですか?
私は自分の幼い子どもに話します。難しい話も、聞かせたくないような話も。 どうしたらいいんだろう、という私に「そんなの知らないよ」と言います。 そう。子どもには何の責任もありません。産まれてくる時代も、国も選べません。 そんな子どもを目の前に「決まっちゃったから仕方ないんだよ」なんて私は絶対に言いたくない。 あなたたちが大人になるまでに何とか少しでも良くなるように変えるよ。 だからあなたたちも大人になった時におかしいと思ったらみんなで考えて変えていけるようになってね。 私は今、子どもたちにそう力強く話します。
正義の原則ではなく、みんなで話して、合意して、契約と法で社会を作る。 「社会の構成員となるすべての者に共通する一般的な教育」それが普通教育です。 憲法に基づいた教育で民主的な人間を育てる。それを行うのが学校の役割です。
みなさんは、正しい普通教育を受けてきていますか?
教育に希望はありますか?
2006年以降も様々な〇〇教育と言ったものが導入されてきました。権力からの介入によりこういう内容でやらなければいけない、と思うようなものもたくさんあります。けれどやった時、何を感じるか、どう考えるかは子どもの自由なのです。どんな発言をしてもいいのです。最後に思っていたゴールとは違うものになってもいいのです。
今回の前川喜平さんを招いた名古屋市の学校の校長先生は生徒にこう言われたそうです。
「いろいろ言われているけれど君たちは自分たちが聞いたこと、見たこと、考えたこと、思ったこと、そういうものを大事にすればいいんだよ」と
子どもたちの純粋なまっすぐな気持ちを一番知っているのは現場の先生です。
日本国憲法第19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
先生たちが今こそ良心に従って素直に子どもに投げかけた時、私はその希望が生まれると信じています。