長野県の北部、信濃町と飯山市との境にある集落・富濃。そこにある浄土真宗本願寺派称名寺には「梵鐘記念 昭和十七年十月」と刻銘された石が吊るされています。
昭和16年に公布された国家総動員法にもとづく金属回収令によって、生活のなかにあるあらゆる金属類は根こそぎ回収。称名寺の梵鐘も、昭和17年、門信徒の手によって戦地に送られました。大砲の弾丸になったとも言われています。門信徒は寺の近くにあった石をそこに吊るしました。70年以上を経たいまも「石の鐘」はそのまま沈黙しています。
なぜ、石の鐘のままにしているのか。こたえのてがかりは、この寺の女性の僧侶、佐々木五七子さんの、この言葉。
「いま、世の中は平和ですか? 平和ではありませんね。こうしているあいだにも、戦車や爆撃による殺し合いで、なんの罪もない子どもや老人、赤ちゃんまでもが死んでいます。そういう戦争がなくなったら、石の鐘は下げてとりかえましょう」。
やだネットと飯綱町9条の会で、「石の鐘」の長野県信濃町・称名寺の見学と住職の佐々木五七子さんのお話を聞きに行きました。
五七子さんの後ろのシダレザクラは、戦時中の食料増産のために、切って畑にしようという計画があったそうです。ある日、白い腕章をまいた男4人組がやってきました。
当時15歳の五七子さんは「大切な鐘を奪われ、シダレザクラまでも奪われてたまるか」と、「あんなきれいなサクラを切るかわり、どれだけの食料増産ができるかしめしてください」と激しくつめよりました。「4人組はなぜかよくわからないけど帰って行ったよ」と五七子さん。
五七子さんは「聞いてほしいことがあるんだ」と話を続けました。幼なじみのみっちゃんのこと。
みっちゃんは、家族で満蒙開拓に渡り、一人生き残ったといいます。みっちゃんは中国人に4度も売られ、辛い思いに会い、井戸の中に飛び込んで自殺することも考えました。
そんなみっちゃんの救いになったのは、4回目の身売りで「お母さん」になってくれた人の存在でした。心底やさしくしてもらって、本当にうれしくなって「ずっと中国で生きていこう」と思った矢先に、引き揚げ船で日本に帰ることを説得され、帰国しました。
みっちゃんは帰国後、カトリックの仕事をするようになり、今は台湾に住んでいます。今でも「お母さん」への恩返しがしたい、と思い続けています。
みっちゃんが帰国するときは、五七子さんのところに泊まり、まるで小さいときのように仲良くお話しながら、いっしょに寝ます。
五七子さんはいいます。「みっちゃんはキリスト教、私は仏教。ムハンマドだって、キリストだって、仏陀だって、みんな『思いやりの心』を教えているよ。宗教は違ったって、気持ちはみんな一緒。戦争はやだよ」
北信濃に称名寺という浄土真宗の寺があります。
その寺の鐘楼には、いまもって、青銅の鐘はなく、大きな石が下がっているだけです。
それはそこのご住職の、かつての戦争への反省と怒りの静かな想いの結晶です。
それは、とりもなおさず、石の鐘自身が、新たな戦争は許してはならないと、無言のうちに、そのメッセージを語っていると言えます。
そのメッセージに、私たちは真摯に耳を傾けなければなりません。
私には聴こえます。
安倍総理が、憲法を無視したうえ、国会の審議・同意をあと回しにして訪米し、これまでの日米安保を大きく飛躍させ、軍事同盟化へと進んでいることを怒らないのかと。
民主主義のルールを破っても、あなたがたは黙って、許すのかと。
そのつけは、子どもや孫たちに負わせることになるぞよと。
歴史をよくみなさい。
自分には関係ないよと、目先のことにとらわれていると、あぶないよ。長い望遠鏡をもって、過去や世の行く末を見つめる目をもっていないと。
このごろ、メデイアも真実を報じないようになっているから、それを見抜く眼鏡も、あなたがたは発明したほうがいい。気をつけないと、次のようになる。インドの詩聖、タゴールの詩。
出合いのランプは長く燃えるが、別れには一瞬のうちに消える。
戦争のことをうたっているのではないが、後半に注目しよう。いま、あなたがたが送っている日常の幸せも、戦争になれば、一瞬のうちに消えるのだよ。
「石の鐘」の語りは、まだまだ続きます。
(2015年4月29日記)
長野県の北部、人口約9000人の信濃町で、18日、戦争を語り継ぐ「戦後70年 聴こう!石の鐘のメッセージ」を開催、300人が集まりました。
当日の様子は信濃毎日新聞、毎日新聞、しんぶん赤旗が報道、SBCテレビ(信越放送)、NHKラジオ「先読み夕方ニュース」では特集が組まれました。主催は信濃町9条の会、飯綱町「憲法9条を守る会」、憲法かえるのやだネット長野でつくる実行委員会(後援:信濃町、信濃町教育委員会)
最初に横川正知町長に祝辞をいただきました。
第1部「戦争を語り継ぐ」では、元信濃町議会議長、元全国町村議会議長会会長の中沢則夫さん(93)と小林一茶の菩提寺、浄土真宗本願寺派明専寺の月原秀宣副住職(45)のトーク。軍隊経験がある中沢さんは、安保法案廃案の意見書可決に病床から町議たちに電話をかけるなど請願者として奔走。「戦友」の母親に遺品を届けたとき、「戦争で命を落とすためにこの子を産んだわけじゃない」と一緒に泣き崩れたエピソードを紹介しました。
月原さんは自身の平和活動を通して実感した憲法9条の価値にふれながら、「中沢さんのような戦争体験者の思いを受け継いでいきたい」と決意を述べました。
第2部は「石の鐘の物語」。信濃町にある浄土真宗本願寺派称名寺には、アジア太平洋戦争で供出された梵鐘の代わりに「石の鐘」を73年間下げ続けています。「石の鐘」は「二度と戦争で帰ってこない命の証」です。
和田登さん(児童文学作家、黒姫童話館長)、清水まなぶさん(シンガーソングライター)が、「石の鐘」と称名寺住職の佐々木五七子さん(86)を題材にした新作をそれぞれに発表し、作品に込めた思いを話しました。
゛長野は教育県だという。その真面目さと勤勉さは、軍国主義を浸透させる上でも、好都合だったのかもしれない。満蒙開拓義勇軍の志願者を集めるために、その勤勉さは効果を発したのだろうか。けっして豊かではない、山村のすみずみから多くの純真な少年たちが、国家の掛け声に呼応して、大陸に向い、果てた。それらを送り出した側の人々の悔恨の思いは、筆舌につくせないものだったろう。
戦後、その反省の上に、平和と非戦のための教育が長野の人々の心のヒダの深くに浸透してきたのだと、集会に参加して感じた。戦後の平和憲法、とりわけ憲法9条は、これらの人々にとって、かけがえのない到達点であり、なにがあっても守り通すべき楔なのだろう。
このようなユートピア的な非戦論が、今日世界の中で、どのような現実的有効性を発揮しうるかについては、「9条で国は守れない」と疑問をなげかける人もいるに違いない。しかし、このようなユートピア的非戦論が、まだ人々の心の中に深く刻みこまれていることが、国家権力の安易な軍事的冒険に対して、根源的な防塁となっていることを忘れてはならない。
そもそもユートピア的非戦論を訳知り顔に笑う人たちだって、どれだけ世界の現実を知っているといえるのか。それは、かつての勇ましい帝国日本への危険な回帰願望を今風の言説に包んでいるだけかも知れない。
国際貢献の名の下に、自衛隊を海外派兵し、武力行使できるかつての国家へとこの国を回帰させようとする為政者たちの野心の前に、北信の素朴な村人たちのユートピア的非戦論は、やさしさと力強さをもって立ちはだかっている。”
今こそ、エンデを
「モモ」「はてしない物語」の作家、ミヒャエル・エンデは、ナチス敗北のまぢか、16歳にして、老いも若きも駆り出される召集令状を破り捨て、疎開先から90キロの道程を歩いて、ミュンヘン郊外の母のもとに落ち着く。召集令状は、なおもそこまで追いかけてきたが、母親はそれをストーブに投げ入れて、戦争はもう終わりだと告げ、生きることの方が問題だと、きっぱりと言う。
敗戦を予感したのだろうか。
エンデは、反ナチス抵抗組織の伝令として走りまわっているうちに敗戦。
エンデの諸作品は、そうした強靭な魂の結晶である。晩年にいくにしたがい、現代のグローバルな資本主義の市場経済の飽食社会の末路を予見するようになる。つまり、終末観が作品に色濃くでるようになる。
彼が理想としていた社会は、法のもとに自由であること、平等であること、相互扶助の社会であることの三つに要約される。それは自然界の摂理に学ぶことによって達せられると。
よって、彼は自然とともに純粋に暮らしている人々の心を愛した。その想いの帰結として、彼は、信濃町の黒姫童話館に、自分の作品の生原稿、書簡、少年時代に落第したときの通知表にいたるまで、その殆どをここに収めることを承知した。400万人都市の故郷ミュンヘンではなく、人口8500人のこの小さな町に。約2000点の資料のなかに、「モモ」の初稿もある。
称名寺の「石の鐘」を見たら、それらの展示のある黒姫童話館へ行こう!
(想)